本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その9
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- 2019/06/26 16:32:03
元禄14年3月14日、浅野内匠頭長矩は殿中で吉良上野介義央に刃傷に及び、大けがをさせて切腹・御家断絶の沙汰がくだった。
赤穂藩へは二度の早駕籠で事件が伝えられた。第一の早駕籠は早水藤左衛門と萱野三平が乗って浅野の刃傷について伝え、第二の早駕籠は原惣右衛門と大石瀬左衛門が乗って浅野の切腹と御家断絶が伝えられた。吉良の生死についてはもっとあとになって伝わった。
「忠臣蔵」では赤穂藩は「籠城」論、「切腹」論などに議論が割れたとされているが。
「逆説の日本史14近代爛熟編」井沢元彦著によると。
赤穂では「江戸急進派」と呼ばれる堀部安兵衛らは江戸での後始末に忙殺されていていなかったことを念頭において、幕府の裁定はおかしい、断固籠城すべしと主張した藩士はいったい何人いただろうか。赤穂の武士身分は307人で江戸急進派はいなくても100人以上は残っていたはずである。
”答えはゼロなのだ。
そんなことを主張した人間は唯の一人もいなかったのである。赤穂事件の史料はまさに玉石混淆で、「玉」よりも「石」の方がはるかに多いのだが、そういう「石ころ」の、つまり良質ではない史料の中にすら「籠城派」がいたとは書いてない。もちろん、彼等の名誉のために言うが追腹すなわち殉死すべきだと主張した武士は少なからずいた。しかし、それでも多数派ではなかった。正確な数字はわからないが、過半数よりは下であったろう。それが半数を超えていれば「場内の議論は切腹に落ちついた」という表現がどこかにあるはずだが、どこにもない.。”
では、「幕府の裁きは不公平だから抗議で切腹」はどうだっただろうか?
”赤穂藩にはとりあえずの一報として「殿が殿中にもかかわらず刃傷に及んだ」ということだけが伝えられたはずだ。そして第二報として「判決は切腹そして断絶」と伝わったわけだが、これ自体はまったく法通りの裁きであって、いささかも不公平はない。
おわかりだろうか? だからこの時点で赤穂藩士一同が「幕府の裁きは不公平だ」などと思うはずがないのである。だから、この切腹も「抗議の切腹」ではなく、あくまで「幕府に主君の不調法を許してもらい、御家存続を嘆願するための切腹」と考えた方がいいだろう。
「ああ、やっちゃったのか」と家来たちの大半が考えた時に、「裁きは不公平だから抗議のために腹を切る」と考えるのと「とんでもない主君の不始末だけど、われわれ一同が腹を切ってお詫びすれば幕府も御家再興を考えてくれるかな」と考えるのと、どちらが自然か、ということである。”
結局大石内蔵助は腹を切らず、幕府に御家再興の嘆願書を出し続けることになる。御家再興を考えていた大石がなぜ討ち入りのメンバーとなってしまったのか。
つづく。