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本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その11

執拗な御家再興の嘆願も実らず、元禄15年7月10日に浅野大学長広が閉門の上、広島藩の浅野本家御預となった。事実上、浅野家再興はなくなってしまったのだ。このあと、大石は江戸急進派とともに吉良邸討ち入りへ急速に突っ走ることになる。

このとき大石の頭にあったのは、浅野内匠頭長矩仕置きへの不満ではなく、浅野長広への処分への不満であったろう。乱心であったのであれば、御家再興は許される。母方の叔父の内藤忠勝が乱心で刃傷に及んだときは、弟の忠知は連座で罪を問われず、御家存続が許されている。浅野長広はまったく同じ状況で、将軍も同じ綱吉なのだ。場所が増上寺か江戸城内か、家綱の77日法要か桂昌院の従一位叙勲のための接待かは重要なことであっても、裁きに揺れがあってはならない。

といっても、将軍家に弓を引くわけにはいかない。不公平な裁きは命を賭けても撤回してもらいたい。大石の心は揺れに揺れて、浅野が刃傷を起こした相手の吉良上野介に狙いを定めたのではないか。

吉良上野介吉央は元禄14年8月19日に、呉服橋から本所松阪町へ移り住むことになり、12月13日には隠居が認められている。

「逆説の日本史14近世爛熟編」井沢元彦著によると。

吉良にも責任が間違いなくあったからこそ職を辞したという。

”あの刃傷事件で吉良は「お咎めなし」とはいうものの、「不始末」はやはりある。結果的に勅使御接待の場を血で汚してしまったからだ。前にも述べたように、重大な接待だからこそ経験のある長矩が選ばれた。当然、その人選には吉良はかかわっているはずだ。少なくとも「これでいい」というハンコは「押した」はずである。その男が前代未聞の不始末をやらかした。となれば、やはり責任を取って勇退ということになる。額の「向こう傷」も戦国時代なら売り物になるが、平和な時代の高家にはふさわしくない。だから吉良は職を辞した。引退した人間は当然「職場」の江戸城の近いところに住む必要はない。幕府も当初は吉良を「被害者」と認定していたわけだから、静かなところでゆっくり余生を送れ、という態度を示す。その結果が「本所松坂町」なのであって、こう考えれば不思議でも何でもない。”

結果的に討ち入りがしやすい環境になったのは事実だが、浅野家家臣にとって吉良邸に討ち入ることは、形を変えた綱吉への反逆行為だ。どんなに言い繕っても吉良への遺恨ではなく、綱吉の長広への処分が不公平だという抗議だからだ。だが、赤穂藩は武士身分は307人で、結局討ち入りに参加したのは47人。幕府に対して弓を引けば圧倒的な武力で叩きつぶされる。赤穂浅野家どころか、広島の浅野家や母方の内藤家にも迷惑がかかる。と考えた結果が、吉良上野介を討ち取ることだったのではないか。

もちろん、家臣達は将軍家への反逆だってことはわかりきっていた。だからこそ、御家存続のために藩札始末で奔走して6割とはいえ完済した大野九郎兵衛も、長広の処分ののちに離脱した奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎も、将軍家への叛逆に抵抗があって立ち上がることができなかった可能性が高い。

秩序ができてしまった社会では、教育がものをいう。儒教全盛の世の中で、どうしても主君の君である将軍家へ弓を引くことはできなかった。

迷惑なのは、殿中で斬りかかられた吉良上野介である。

つづく。

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2019/07/05 15:43
>ゆりかさん
こんにちは^^
大石は浅野内匠頭がバカ殿ってわかっていて何事もなければよいがって考えていたところがあります。
『土芥寇讎記』(元禄3年)で、浅野内匠頭は「女好きの暗君」として登場しています。この本は編者不明なので真偽は怪しいのですが、討ち入り前にこう思われていたという証左ではありますね。
赤穂事件の鍵は最初から泉岳寺にあるのですがそれはもう少し先にしますね^^
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2019/07/03 18:50
こんばんは、kiriさん。

一気に読ませて頂きました^^
kiriさんの文章は説得力があって、忠臣蔵の裏側がよくわかりますね。

大石は主君の切腹処分ではなく、御家再興が許されなかったことが不満だったとは…
赤穂浪士は御家再興されないと路頭に迷ってしまうから必死だったのでしょうけど、その矛先が被害者の吉良にいくのは何だか納得がいきませんね~^^;
kiriさんのおっしゃるように、責任者の吉良にも不始末はあったのかもですけど。

次回、吉良はどうなってしまうのか(仇討されるの流れは決まってますが)裏側も気になります(*^^*)




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