本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その12
- カテゴリ:勉強
- 2019/07/01 16:56:35
元禄15年12月14日早朝、大石内蔵助良雄が表門を破って口上書を立て、大石主税が裏門から吉良邸に討ち入った。
「逆説の日本史14近代爛熟編」井沢元彦著によると。
”「時代劇」として「忠臣蔵」を見た時、最も違和感があるところはどこか?
それは吉良方が厳重な警戒をして上杉家からの「付け人」も大勢いたにもかかわらず、赤穂側には一人の死者も歩行不可能になるような重傷者もなく、吉良方は全部やられてしまうことだろう。どれほど強いのかと思わされた「清水一学」など、結局赤穂浪士を一人も斬ることができなかった。これを見て皆さん変だと思いませんでしたか?”
もうひとつ、討ち入りの日に注目してみよう。
殿中の刃傷沙汰があったのは元禄14年3月14日。
赤穂浪士の討ち入りは元禄15年の12月14日。
”討ち入りの行われたのは、いわゆる「月違いの命日」なのである。もし吉良側が「仇討ちはある」と読んでいたら、最も警戒しなければならないのは、一か月のうちでどの日か? 答えるまでもないだろう。しかし、吉良邸はあの夜、見回りの人間すらいなかったのである。”
誰も討ち入りがあるなんて考えてもいなかったし、吉良邸もまったく警戒していなかった。だからこそ、不意打ちで迎え撃つことができなかった。
赤穂浪士は口上書を書き、死を覚悟で完全武装で乗り込んできた。吉良邸は夜明け前でそろそろ朝の準備というところを襲われた。何が起こったか理解したときにはすべてが終わっていた可能性がある。
庶民が討ち入りとか仇討ちを期待していたっていうのは、事実を知っている後世の人間の後付けである。
”「忠臣蔵錯覚」の最大のものは「仇討ではないのに仇討と思わされている」ということだ。これは「代行殺人」なのである。現代でも悪と認定されることである。
だから吉良側は当然そんなことは無いだろうと思っていたし、庶民がそれを期待したはずもない。「オタクの親分、ジジイをぶっ殺そうとして果たせず死んだって。じゃ、子分のお前がやっちゃえよ。オレも応援するからさ」なんてヤツは、現代でもまずいないだろう。もっともヤクザならいるかもしれない。ヤクザの言う任侠道は武士道の変形だが「親分に対する絶対的な忠義」そして「死者のやり残したことをやる」怨霊鎮魂的発想の色合いが強い。別に難しいことではない。平たく言えば前者は「理屈じゃない。親分がクロといえばクロ、シロといえばシロ」だし、後者は「親分もあいつのことはさぞかし心残りだっただろう。じゃ、親分の代わりにオレがあいつの首を取って墓前に供えるか」ということである。注意すべきは何が「善悪」かという道徳的基準よりも、親分の「心情」がどうであったかということが優先されていることだ。”
大石たちは仇討ちではなく、幕府の不公平な長広への仕置きへの不満を晴らすべく、吉良邸に討ち入った。不意打ちで、一方的な殺戮であった。
だが、この討ち入りは「仇討ち」として「義挙」とされてしまう。ここで歴史が変ってしまったのだ。
つづく。
おはようございます^^
忠臣蔵って順番を追っていくとおかしいって思いますよね。
どうして義挙になったかってホントにわかりやすい納得の理由があるので続きをお楽しみくださいませm(__)m
筋道立てて分かりやすいです!