本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その13
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- 2019/07/02 16:49:41
仇討、敵討とは尊属を殺害した者に対して行う復讐による私刑で、父母、兄など自分より年上の血縁の敵をとることを意味した。そのうちに「目上の人」たとえば主君や親分などの敵を討つことも含まれるようになった。
儒教の徳目には守るべき順番があり、第一位が親に対する「孝」、第二位が主君に対する「義」で、主君の命令で戦に出ていても親が死ぬと戦場からの離脱が認められていた。
大石はもの「孝」と「義」を一緒にした「君父の敵」という新語を作り出した。それはもちろん、吉良への討ち入りに際して正当な理由をでっち上げたかったからだ。
「逆説の日本史14近代爛熟編」井沢元彦著によると。
”大石の苦衷というのは、「乱心ならば責任は本人だで弟には及ばない」という「事実」を、声高に主張できないことにある。「乱心」はやはり「主君の恥」だからだ。だから「ぜひともお願い致します(事情はおわかりでしょう)」という形になる。
事情を知らない人間から見たら、「大石は何をやってるんだ。御家再興なんて叶うわけないじゃないか」と思うだろう。
大石にしてみれば「望みはある」と言いたかっただろうが、「主君の恥(差別的感覚だが時代が違うのだから仕方ない)」は言えない。一方、御家再興などどうでもいい、「主君の無念」を晴らすのが第一だという「新規採用組」の堀部安兵衛らは、同じ考えの同志を集め、早く江戸に出て討ち入りの指揮をとってくれとせっついてくる。大石が京の祇園で酒を飲んで放蕩三昧をしたというのも、高い祇園は無理でも安い島原あたりなら有り得ない話ではない。大石の腹づもりは御家再興叶わば「新しい殿に迷惑はかけられぬ」という形で説得し事を収めるつもりだったろう。しかし、長広は結局「御預」の身となって、ここに御家再興の望みは完全に絶たれた。
ならば、この不公平な裁きに抗議する手段は一つしかない。堀部たちに合流することである。”
討ち入りは成功して吉良吉央は討ち取られた。事件を知った民衆は熱狂した。仇討ちというには無理筋だとか、吉良は本当は悪くないのではとか、幕府も裁定にも問題があったのでは。ということはまったく関係なかった。綱吉の治世は戦争はないが「服忌令」や「生類憐れみの令」などで少しばかり窮屈だったのだろう、「武士道」を押し通した赤穂浪士たちに民衆の興味は移ってしまった。
幕府は間違ったことであるが間違っているとは言えず、庶民の熱に迎合するように赤穂浪士の討ち入りを「仇討ち」として認め、赤穂浪士を義士とした。彼らを助命することはできないが武士としての礼儀をもって切腹させた。
”ここで最も割を食ったのが吉良である。
「義士」つまり「正義の士」に殺されたのだから、当然吉良は「悪」でなければならない。浪士の人気が高まれば高まるほど、それを結果的に死に追いやった(本当は吉良の方が殺されたのだが)吉良は極悪人ということになる。”
きちがいに刃物とはよく言ったもので、乱心した浅野内匠頭に狙われた吉良は浅野家家臣たちに斬殺されたあとあとの世界まで極悪人として名を残すことになってしまった。
つづく。
こんにちは。
綱吉の評判を悪くしたのは儒学者の新井白石で、自分の考えと違うからぼろくそに書いているのですね。
綱吉の政治は既得権を権力者たちから取り上げるものだったので、悪く書かれた資料が多くなりますね。
吉良の息子(本当は孫)の義周は討ち入りされたことを不始末として信濃国諏訪藩にお預けになっています。再興はできなかったみたいですね。
ゴリ押しの理屈でそれに民衆がのっかってしまったと。
元々、綱吉の評判は悪かったですものね・・・
吉良には息子がいたはずですが、ずいぶん肩身の狭い思いをしたでしょうね・・・