本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その16
- カテゴリ:勉強
- 2019/07/05 16:42:33
山崎闇斎は江戸初期の儒学者、朱子学者、神道家、思想家で、崎門学と垂加神道の創始者。会津藩主・保科正之の庇護を受け、冲方丁「天地明察」では改暦を目指す渋川春海の師として助言を行っている。のちの水戸学に影響を与えて尊皇攘夷思想を形成するきっかけとなった。
佐藤直方、三宅尚斎、浅見絅斎は崎門の三傑と呼ばれる山崎闇斎の高弟だが、意見はまっこうから対立する。
「逆説の日本史14近代爛熟編」井沢元彦著によると。
三宅尚斎は佐藤直方の論を「目の子算用」が過ぎると批判している。目の子算用とは「理詰め」あるいは「論理的」ということ。
”佐藤直方は、吉良に一つの無礼もなく、浅野がやるべき金をやらぬ無礼をしたというが、そうは言い切れないのではないか。(中略)原因があって浅野は怒りに耐えきれず切りかかった。吉良と命を引換えにしてと思ったが本意を達しえず、あまつさえ公法を犯した科で誅せられることになってしまったのだ。
賄を人並みに贈らなかったのは君父(浅野長矩)の誤りだとか、それほど怒ることでもない事に怒ったのも君父の誤りだ、(中略)君父は吉良に殺されたのではない。幕府によって誅されたのだから、是非もないと思ってそれ切りにせと、などと佐藤は言う。しかし臣子たるものは果たしてそんなふうに、それきりにして済ますことができるであろうか。
佐藤は目の子算用で考えよと言う。そのように言ってしまえばそうも言えるが、臣たる者は目の子算用にして、是非もなきことと思い、主人のことを思い捨てることができるであろうか。四十六士は公儀にも怨みがあり、吉良にもとより冤みがある。吉良の無礼の故に浅野が誅をうけ、あまつさえ吉良に怨みを晴らせなかった。このため吉良は眼前にのめのめとして身を全うしている。それを佐藤の言うように、主君の不調法で事が起こり、吉良が殺したのではない、吉良がのめのめしているのは当たり前、などと言って済ませることができようか。どんなにか主人の遺恨に思われていることであろうかと主人の心を察し、主人の志を継いで討つことがどうして理に合わないと言えようか」
(原文「重固問目」現代語訳「忠臣蔵第三巻」八木哲浩著 兵庫県赤穂市発行)
浅見絅斎は浅野側の主張を全面的に受け入れて吉良を断罪している。
”浅野が私忿のあまり時節をはばからぬ振舞いをしたことは不届き至極のことであるが、浅野は刃傷後一歩も逃げる様子はなかった。公儀に対して一点一毫敵対する意志のなかったことを示すものである。ただ前後を顧みる暇がなく吉良に切り掛かったのだが、もしこれを止める人がなかったら、浅野は吉良を切ってそのまま自害したであろう。喧嘩両成敗の法に当たる。事実は両成敗にならなかったが、この行為によって浅野が成敗されたのなら吉良も成敗にあずかるべきはずである。
大石(以下四十六士)の仕業は終始公儀に対して手向かうことなく首を差し伸べて公儀の処断に身を任せた。泉岳寺で自害しなかったことを不義だというのは訳がわからない。主の仇を討った行為は忠義である。そのあと死のうが生きようが関係のないこと、ましてや公儀の処断に身をゆだねたことは神妙従容たる態度である。命が惜しければどうしてこのような大義を思い立とう。
四十六士は「浅野内匠家来口上」においても公儀に対して一言のうらみもないと言っている。主人が打ち損じたから意趣を継いで仇を討ったもので、まれな忠臣義士である。徒党を組んで戦場の法をなすは大罪だというが、相手次第で少々騒動に及んでも、これほどの大事の前にはわずかな越度にすぎない。それによって彼らの忠義にいささかも傷はつかない。抵抗しない者は殺さず火が出ないように用心深く心を配っているではないか。大義が立ってさえいればそれでよいので、それにけちをつけ、何のかのと毛を吹いて疵を求めるようなことを言うのは間違っている。
(原文「赤穂四十六士論」現代語訳「忠臣蔵第三巻」八木哲浩著 兵庫県赤穂市発行)”
三宅尚斎は佐藤直方の論は「正論」であるけれども、「人情」で考えれば赤穂浪士にも正しいところがあるのではないかと論陣を張り、浅見絅斎は「大義」がしっかりしているのであるから、途中の些細なことに文句をつけるのはおかしい。仇討ちだからいいのだと言い切っている。
結果、もっとも論理的で全員が納得するであろう佐藤直方の論は忘れ去られて、浅見絅斎の論が現代に残っているものに一番近い。
朱子学とは「覇者(武力をもって天下を治める者)ではなく王者(徳をもって天下を治める者)」を忠誠の対象とせよとする教えだ。山崎闇斎は徳川は覇者であって王者は天皇という考え方で、浅見絅斎はこの流れを汲む。佐藤直方は中国風の儒学を重んじて、天皇家は血統であって王者でないという考え方で徳川を認めている。
これらの議論ののちに、幕府は林大学頭信篤の言を一部受け入れ「大名に対する家来の忠義を褒めることは、結局、大名の将軍に対する忠義を強化する」と考えてお赤穂浪士らの処分を切腹とした。とんでもない間違いだったとも気づくことなく。
つづく。