本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その19
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- 2019/07/10 16:38:24
徳川家康が朱子学を奨励したのは「主君への絶対の忠」と説く学問だったから。織田信長を明智光秀が討ち取り、徳川家康が豊臣秀頼を攻め滅ぼすような、戦国の世界を続けないためには徳川将軍家を頂点とした忠義の図式を作らなければならなかった。主君のいうことは絶対。だから、「水戸黄門」では印籠を出せば今まで「田舎じじい」と刃向かっていた悪代官が平伏したのだ。印籠を出しても数を頼んでなかったことにするような社会では平和は保てない。
しかし、朱子学では忠誠を尽くすべき対象を「覇者(武力をもって天下を治める者)ではなく王者(徳をもって天下を治める者)」としていて、徳川はどう考えても覇者であって王者ではない。山崎闇斎や浅見絅斎は王者を天皇と考えて、朱子学として広めていく。
「逆説の日本史14近代爛熟編」井沢元彦著によると。
「日本教」という考え方を提唱する山本七平が『現人神の創作者たち』の中でこんなエピソードを紹介している。
”ある時、徳川御三家の一つ紀州家から五百石をもって招きたいと申し入れがあった。絅斎はそれまで「民間」の学者だから五百石は大変な出世である。しかし絅斎は即座に断った。仲立ちした人が驚いて「では将軍家から招かれたらどうなさるか」と聞いたところ、絅斎はにっこり笑って「その時は島流しの覚悟」と答えたという。
これは、もし招かれたら一度は応じて将軍の前に出て「天下を天皇家に返されよ」と言うつもりだったのだろう、ということになっている。”
同じ山崎闇斎の崎門三傑のひとり、佐藤直方だけは「天皇家は血筋であって、徳ではない」という立場であったが、ほとんどの儒学者は山崎闇斎も含めて浅見絅斎のような考えであった。
ただ「天皇家が正統な王者」という認識だけでは、なにも起らない。徳川家は天皇家から征夷大将軍として任命されて日本の統治を任されているからだ。朝廷が任命したものを、天皇のために討ち滅ぼすのは天皇に逆らうのと同じだから。
天皇が認めた政権を「天皇」のために倒すには何が必要かといえば、政権を倒すことが「天皇」のためになる正義だという認識を生みだすことだった。浅見絅斎が赤穂事件を利用して、形式上は犯罪であっても君のためなのだから立派な忠義でありあっぱれであるとの理屈を作って、将来現れるであろう倒幕の目を作ったというのだ。
”さまざまに論ぜられているが、結局は、法律的にどうのこうのと言い、儒学に基づけばどうのこうのと言ったところで、そんなことは問題ではない。大石良雄以下が、これが主君の心情と思ったことに自らの心情を託し、全く私心なく、純粋にその通りに行なったことが立派だという説が絶対になってしまう。浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。(中略)違法な行為をした、しかしそれが未遂であった。それでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動をも否定しなければ論理があわない。現代でも「殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤審ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死に切れまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう」などと言うことは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、(中略)理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だと言う以外にない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だということになる。
(忠誠の 引用者註)対象が天皇で、幕府が天皇に対して吉良上野介のように振舞ってこれを悩ませ、天皇が幕府を怨んでいると思い込んだ人間が『靖献遺言』を読んだらどうなるであろうか。何しろ死んだ浅野長矩に対して心情的にこれと一体化できるなら、勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。いわば処刑されても殉教者のような評価を受けることになるのである。その点、浅見絅斎の「四十六士論」は『靖献遺言』と併読すると、そういう人間が出てくることを暗に期待し。その論を無理に『靖献遺言』と結びつけている扇動文書のような感じがしてくるのである。
(「現人神の創造者たち」山本七平)”
『靖献遺言』は浅見絅斎の著作で、中国の「忠臣伝」だ。「忠義」のために命をささげた「忠臣・義士」を長い歴史の中から選んだものだった。日本の忠臣伝ではないのは、豊臣の忠臣のことを書いて発禁となることを避けたのだろうと推測できる。中国の話で「忠義を勧める」本を幕府は禁止できない。
浅見絅斎は君を天皇として書いている。だから、天皇のためならば非合法なことであっても奸臣を取り除くべきと忠臣蔵を利用して説いたのだ。
つづく。
こんばんは^^
江戸時代は天皇が将軍を任命して日本を統治しているという、軍事政権だったため、形式上は天皇がトップだったのですね。
家康は徹底的に天皇家に対してつらく当たっていることもあって、巡り巡って明治維新のときに徳川家は徹底的に排除されてしまうのですが。
忠臣蔵から浅見絅斎が先を見通していたとすればおそろしく頭の切れる軍師であったでしょうね。
徳川の世でも天皇家を立てる人々がまだいたのですね・・・
まあ、あえて大っぴらにしても誰も罰しないんですね。
きっと徳川も位を買ったり、天皇家や朝廷側を利用している所がありましたから、
荒波を立てたくなかったんでしょうね。
昔、天皇家:ローマ法王のような宗教指導者、将軍家:政治をする王族
という例えを聞いたような気がしますが、
あながち間違いではないのかもしれません。
まあ、ヨーロッパではそれが影響しあうことがあっても、
同時並行で同じ土地を統治することはなかったかもしれませんが。
ただ、浅見氏の意見はやや過激ですが。