江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その1
- カテゴリ:勉強
- 2019/07/18 16:53:43
”桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないのでこの二三日不安だった。しかし、いまやっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。
これは信じていいことなんだ。”(「桜の樹の下には」梶井基次郎)
東京の桜の名所といえば、上野公園、飛鳥山公園、隅田川公園、新宿御苑、御殿山庭園、清澄庭園など。上野公園は巣鴨宿、飛鳥山公園は板橋宿の近くでともに中山道の出発点、隅田川公園は千住宿で日光街道、奥州街道の出発点、新宿御苑は内藤新宿で甲州街道の出発点、御殿山庭園は品川宿で東海道の出発点、清澄庭園は深川宿で水戸街道、千葉街道の出発点。それぞれ大きな街道の起点だった。そして、街道の起点にはつきものの処刑場が江戸時代には置かれていた。
「神の時空 五色不動の猛火」高田崇史著によると。
”品川宿の近くには、鈴ヶ森刑場がある。慶安四年(一六五一)の丸橋忠弥の磔から始まって、明治四年(一八七一)に閉鎖されるまでの二百二十年間で、処刑された罪人は二十万人ともいわれとる、しかし、その約四割が冤罪だったのではないかともいう。しかも、罪人といっても八百屋お七のように凶悪とはいえない者もいた。最後の刑死者である、元幕臣の渡辺健蔵などは、明治政府の悪政によって苦しんでいる民衆を助けようとして皇族に直訴した。それが理由で斬首・さらし首になった。
また、千住宿の近くには、小塚原刑場。『骨ヶ原』とも呼ばれており、安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎などの国事犯の刑死者が埋葬されるようになり、こちらも約二十万人もの処刑者が埋葬されたという。そして巣鴨宿と板橋宿の近くには、幕末に新撰組組長の近藤勇が斬首された板橋刑場が中山道沿いにあった。内藤新宿では、甲州街道沿いの八王子に、鈴ヶ森・小塚原と並ぶ江戸三大刑場の一つの大和田刑場があった。その他にも、日本橋伝馬町や、芝などなど。そしてそこには必ず、罪人の首を晒した獄門台や、磔台が置かれていた.”
江戸の秩序を守るという名目で、幕府が置いたという。幕府の命令を聞かなければお前達もこうなるぞという見せしめのためだった。処刑場があるなら、当然火葬寺が置かれた。江戸五三昧は上野公園、飛鳥山公園の近くの千駄木、隅田川公園の近くの小塚原、新宿御苑近くの渋谷、御殿山公園近くの桐ヶ谷、清澄庭園近くの炮烙新田など。
桜の名所は江戸時代に整備されたもので意図的に作られている。見事に刑場と江戸五三昧と重なっているのは、梶井基次郎の桜の樹の下にはの冒頭を想い起こさせないだろうか。
つづく。
こんにちは^^
荒俣宏さんの「帝都物語」のラストは昭和73年の大きな地震で東京が壊滅したあとに、桜を植えて怨霊を鎮めるって話だったと思います。
桜は日本人にとっては特別な花ですからね^^
こんにちは^^
江戸の街はどこから始めても怨霊の話になってしまうから、街のかたちからはじめてみました。
桜の樹の下にはを読んだときに、刑場が近いって感じたことがあって、昔の人たちは怨霊をどう封じているのかって調べました。
私はリアリストなので、見えない者がっていうのは信じてないけれど、どうやって力を封じて自分を守るかってことは細心の注意を払っているのです。
桜の名所と刑場、関係があったのですね。
桜を植えて弔うのかもしれませんね。
今回は江戸時代のお話ですね^^
またまた勉強させて頂きます♪
先日、たまたま鈴ヶ森刑場跡の前を通ったのですが…
怖くて、そのまま素通りしちゃいました~^^;
処刑された罪人が20万人?!
そんなに大勢の人たちが、刑場の露と消えてしまっていたのですね。
しかも冤罪が4割って…もっとちゃんと取り調べしてください~>_<;;
桜の名所が、刑場と重なっているのは、思いもよりませんでした。
「桜の木の下には屍体が埋まっている」
と合わせると、楽しいお花見も、ホラーな雰囲気になってしまいそうですね。
怖い話は苦手ですが、続きとても楽しみです(*^^*)