江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その8
- カテゴリ:勉強
- 2019/07/30 17:10:14
火の用心の御守りは今ではどこの神社でも扱っているけれど、むかしは火防の神様を祀るのが当たり前だった。
たとえば、荒神。民間信仰で台所の神とされ、仏教と結びついたり、地域信仰と結びついたりしているが、火の用心としてお札を貼っているところは多い。
たとえば、秋葉神社。秋葉山本宮秋葉神社は、静岡県浜松市天竜区春野町領家秋葉山。旧県社(現、別表神社)火之迦具土大神を祀り、鎮火・防火の神としての信仰が篤く、近郷はもとより各地に多数の分社と講社を持つ。(神社辞典から)東京の秋葉原は明治2年12月の大火のあとで作られた火除地に秋葉大権現を勧請したことから、秋葉原と呼ばれていて、静岡の秋葉山山岳信仰とつながりがある。
たとえば、愛宕神社。愛宕神社は、京都市右京区嵯峨愛宕町。旧府社(現、別表神社)。本宮に伊弉冉尊・埴山姫命・天熊人命・稚産霊神・豊宇気毘売命、若宮に雷神・迦具槌命・破无神を祀る。祭神は記紀神話の火神誕生の段に名のある神名である。古来より「愛宕大権現」と名高く、火防の神として全国約八〇〇社の根本社とされる。(神社辞典から)
しかし、吉原は稲荷と結びついていた。
「神の時空 五色不動の猛火」高田崇史著によると。
”大晦日には、世間一般の獅子舞の代わりに『狐舞』が行なわれた。白い狐面を被って美しく着飾った『福狐』が、吉原中を練り歩くんじゃ。この『福狐』に抱きつかれた者は翌年に身籠もってしまうという言い伝えがあり、そうなっては不都合案遊女たちは、必死に逃げ回ったという。そして最後は、おひねりを投げて許してもらうというのがお約束だった。四代目・歌川広重も、こう書いておる。
『新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は一組もなく、狐の面を被り、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞い込む。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり』ーとな。このように、吉原と『狐』とは縁が深かった。遊女そのものも『狐』と呼ばれておったし、実際に廓の四隅と大門の外の高札場には、計五つの稲荷社が祀られておった。大門の手前は『玄徳(吉徳)稲荷社』が、そして北から左回りに『明石稲荷社』『九郎助稲荷社』『開運稲荷社』『榎本稲荷社』じゃ。これらの中でも特に『九郎助稲荷社』が、遊女たちに人気があったという。だから川柳にも、
化かせ化かせと九郎助のご神託
九郎助の氏子やっぱり狐なり
などと詠まれたりした。このように、遊女は人を化かすー欺すから『狐』と呼ばれていたと一般的にも思われていたようだが、昔から『狐』自体が遊女と考えられておった。”
稲荷は鋳成りであり、製鉄の神様だったから火とは縁が深い。昔からの稲荷神社には馬がいて、猿がいて、カエルがいる。カエルは河原で砂鉄を採る人たちだし、馬は火であり宝物を生む炉で、猿は宝物だってことなんだよ。
つづく。
こんばんは^^
稲荷の話を始めると全然終わらない上に、弥勒菩薩とか平安京の話から始めなければならないという。
吉原が衰退したのは薩長のお偉方がマナーをいかに知らなかったかってことで、新しい赤坂とか新橋が発展していきます。
神様の話をすると、かならず悪所と絡んできてしまうので、どこまでいっても終わらないことになりそうです^^;;
吉原と狐の繋がりは、そういう行事からもあったのですね。
『狐舞』全然知りませんでした。
どんなものか想像もつかなくて、ネットで検索してみたら、『吉福社中』というHPに辿り着きました。
「吉原の狐舞ひ保存会」というのが発足しているそうです。
写真もありましたが華やかですね^^
遊女が『狐』と呼ばれていたなんて…
言われてみると、そういうイメージもありますけど。
稲荷との結びつきも興味深いですね。
教えて頂き、ありがとうございました(*^^*)