江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その13
- カテゴリ:勉強
- 2019/08/07 16:45:03
風の神雷門に居候 と江戸川柳で詠まれた雷門は正式名称を風雷神門といい、平公雅が天慶5年に堂塔伽藍を一新したときに駒形に建てられた総門と言われている。
金龍山浅草寺は、推古天皇36年(628年)、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像を、土地の長の土師中知にみせたところ、聖観世音菩薩像だとわかり、村のお堂に祀ったのが始まりと言われている。
金龍山の山号は、観音様示現の日、一夜にして千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗を持つ龍が松林の中に舞い降りたという。
大化元年(645年)に諸国巡歴の僧の勝海が立ち寄った際に、改めて堂宇を建立して開山となった。そのときの夢告により、聖観音は絶対秘仏となって庶民が見る機会は失われてしまった。
下町の庶民の寺のはずなのに、本尊は絶対に拝めない。浅草寺はそういうお寺だ。元々は天台宗だったけれども、昭和25年(1950年)に聖観音宗の本山として独立した。
吾妻鏡 建長3年(1251年)3月6日の条に、
『武蔵国浅草寺に牛のごときもの、忽然として出現し奔走す。ときに寺僧五十口ばかり食堂の間に集い会するなり。くだんの怪異を見て、二十四人たちどころに病痾を受け、起居進退すら成らざり居るふう云々。七人は即座に死す云々』
吾妻鏡の記述はこれだけだが、突然牛のごときものが現れて僧が何人も殺傷されたという。
「QED 九段坂の春」高田崇史著によると。
”待乳山聖天が、元々は『金龍山』という山号だったという。
金龍山という名称は、そもそもこの地にーその名の通りにー金の龍が舞い降りたということから来ている。待乳山聖天縁起によれば、推古天皇三年(五九五年)の九月だったという。つまり『金』あるいは、それに匹敵するほどの価値のある物が、この場所で見つかったんじゃ。それがたかだか『一寸八分の黄金の聖観音像』ということではなかろう。それはあくまでも象徴にすぎない。”
見つかったのは間違いなく金の鉱脈だった。
”そしてそれを人々は、ありがたやと祀った。それが元々の『観音様』だった。『観音』は『鉄穴(かんな)』じゃからな。しかしそれは、突然やって来た僧・勝海によって持ち去られ、浅草寺の本尊にされたわけじゃ。そのままだろう、製鉄全てを持って行かれてしまったということじゃよ。
元々この辺りは、そういった土地柄じゃった。だからこそ鎌倉に幕府を開いた頼朝も、この土地にはずっと目をかけていた。ゆえに、ここに住んでいた人間には、良い待遇を与えていたんじゃ。
だからこそ『牛のごときもの』が怒って、浅草寺を襲ったんだろう。”
『件』という妖怪がいる。牛から生まれて人の言葉を話し、様々な予言をしてそれを当て、すぐに死ぬという。『件の如し』という言葉は『件』からきているともされる。
”またこの妖怪も、河童などのように色々な容姿を持っているようでの。牛頭人身だとか、その反対で人頭牛身だとかいう説もある。しかしどちらにしても、名前は見ての通り『件』ー『人』と『牛』じゃ。しかも、この文字の『牛』は、単なる動物の牛を表しているわけではない。これは『牛のように紐でつながれて、自由の利かない人』つまり『奴隷』を表しているんじゃよ。
古代には、奴隷は物品として扱われてきた。ゆえにこれは『物件』などという意味になる。
つまり、どう読んでも『件』は、奴隷や自由の利かない人、という意味を示しておるんじゃ。そしてそれが、妖怪『件』の元々の正体じゃないのかな。”
その牛のごときものが浅草寺を襲ったことになる。
つづく。
こんにちは^^
吾妻鏡の記述は、わざと「牛のごときもの」って書いてなんだか犯人はわかりませんってしているんです。
そうしないと事件は有名になりすぎていたからで、誰がとか何のためって書きたくなかったからなんですね。
聞かれたら牛のごときものだから、わかりませんって言えるように。
金の鉱脈だったら絶対秘仏なのもわかりますね。
ちなみに一寸八分っていうのは江戸時代からの俗説で本当のところはわからないとか。
金の鉱脈ですか。
資源が人々の争いの種を生むのは、古今東西変わらずですね。
「牛のごときもの」は、解説を読むと、なるほど~と思いますが、
わからないと、妖怪か何かの迷信話だと思ってしまったかも^^;
教えて頂き、ありがとうございます(*^-^)