江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その16
- カテゴリ:勉強
- 2019/08/13 16:47:03
『臨終候ハハ、御躰をは久能へ納、御葬礼をハ、増上寺ニて申付、御位牌をハ三河之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以降、日光山ニ小き堂をたて、勧請候へ、八州之鎮守ニ可被為成』(『本光国師日記』金地院崇伝より)
金地院崇伝は、大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺の鐘銘問題で、家康から諮問があって片桐且元の取り調べを行なっていた以心崇伝のこと。一説では国家安康と君臣豊楽の文字について難癖をつけたとされているが『本光国師日記』では家康の諮問のあってからこの問題を知ったと書き記している。
その崇伝が書いた日記で、家康は本多正純、南光坊天海、金地院崇伝の3人を呼んで遺言を残している。
家康は小さき堂と遺言したのだが、その遺言はまったく反故にされた。
「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。
”翌年の元和三年(一六一七)、三月十五日早朝。家康の神柩は、久能山を出発して日光に向かった。四月四日、日光座禅院に入り、八日には奥院に移され、そこで家康の神霊は、天開によって五眼具足の印と真言が伝授された。これは、天皇の即位灌頂で用いられるのと全く同じ儀式だ。
その後、十六日には本殿に家康の神位を移して、正遷座祭が行なわれた。そして、翌十七日には、将軍秀忠参列の下に『小祥の御祭』が盛大に催され、ここに諸大名が、ことごとく参列した。この時の様子を偲んで、現在でも五月十七日、十八日には『神輿渡御祭』という、千人武者行列の行事が、盛大に行なわれている。この祭りには、山王権現の神輿と、摩多羅神の神輿が参列する。”
陽明門には家康の理想がすべて詰め込まれているとの話だったが、とんでもない騙りだ。家康は東照宮を建てることすら望んでいなかった。霊的なエネルギーについていくらかの信仰があったとしても、日光東照宮を計算して作ることなど考えてもいなかった。
すべては残された人たちの意思によって作り上げられたものだ。二代将軍の秀忠も徳川家のことを考えると逆らえるはずもなかった。
つづく。