江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その18
- カテゴリ:勉強
- 2019/08/15 16:36:26
明智光秀が山崎の戦いののちも逃げ延びて、僧籍に入って天海となったという説がある。大正の頃には知られていたようで、家光の乳母には明智の重臣斎藤利三の子である春日局が、家綱の乳母には明智の重臣溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること、光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として戦うが、助命されて秀忠の旗本となっているなどの証拠をあげている。
天海も光秀も出生や少年期には不明なことが多く、知識豊富であることから結びつけられたと思われる。
「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。
”その天海だが、陸奥国大沼郡高田郷に生まれた。現在の福島県大沼郡会津高田町(現在は福島県大沼郡会津美里町2005年10月1日に会津高田町、会津本郷町、新鶴村が合併)だ。だが、生年月日に定説はない。一説では、天文五年(一五三六)と言われているがね。十一歳で、高田の龍興寺において舜幸の下で得度して、出家後名を隋風と称した。そして十四歳ーこれも一説では十八歳ーの時に比叡山に上って、神蔵寺実全より、天台三大部を習得し、檀那一流の奥義を極めたといわれている。また、園城寺ー三井寺ーの観学院尊実からは倶舎を、興福寺の空実からは法相・三輪を学び、成重に就いて『日本書紀』を学んだ。
この後、足利学校に入って儒学を修め、また上野新川善昌寺道器により禅を学んだ。その他にも易経、神道、国学をも修めているー。そして、後の天正十八年(一五九〇)ーこの年は、豊臣秀吉が日光山領の殆どを没収した年なんだがー日立信田庄江戸崎の不動院に住して、慶長四年(一五九九)、更に武蔵国入間郡仙波(川越市小仙波)の北院ー喜多院ーの豪海の下で師資の礼を取り、その名を『天海』と改めた。
やがて慶長五年(一六〇〇)。石田三成の挙兵を耳にするや、神田薬師堂で御嶽の祈祷をなし、そこで徳川家康に謁見した。そして慶長十二年には、梨木最胤法親王より、法曼流の灌頂を受け、その後、後陽成天皇の勅により宮中で法を談じ、同十四年には、家康から、比叡山復興の責任者として指名された。叡山最高職探題となった天海は、家康の期待に見事に応え、南光坊に住して全焼後の延暦寺復興を始めた。”
当時、延暦寺は織田信長の焼き討ちによってほとんどその姿を留めていなかったと言われている。
”天海は、根本中堂、大講堂、文殊楼などを見事に再建した。当然これらの業瀬によって、家康から益々もって篤い信頼を得ることになった。『天海僧正は、人中の仏である。惜しむらくは、もっと早くに相識るべきであった』とまで言わしめたそうだよ……。
同十六年(一六一一)、家康に山王一実神道の奥義を伝授し、血脈相承を行なって、天海はついに大僧正となり、同十八年には、日光山の大僧正ー貫主となり、輪王寺を中興した。そして元和三年(一六一七)、家康の遺骸を日光山に移遷するわけだが、ここで有名な、神号問題が起こる。”
家康は死後、久能山で神龍院梵舜のもとで唯一神道形式に乗っ取って埋葬されている。唯一神道は吉田兼倶が大成させた吉田神道のことだ。
”家康は唯一神道で祀られていると言っただろう。とすれば当然、神号は『大明神』となるはずだ。しかし天海は、山王一実神道の『大権現』を主張した。そこで梵舜は『大権現は、イザナキ・イザナミの神号である』と反対し、崇伝もこれに賛同した。だがここで天海は、明神号は、家康自らが滅亡させた豊臣家の豊国廟の神号と同じーつまり、同列になってしまう、という理由で猛反対した。
というのが、一般的な理由なんだが、実はもう一つ、わけがあってね。
これは、不二龍彦氏らによって指摘されていることなんだが、この『大権現』号は、家康を一気に神格化するための、天海の策略だったという。
『大権現』というのは「イザナキ・イザナミの神号』であり、さっき言った通り、家康は天海によって、五眼具足の天皇の即位灌頂にの儀式によって祭り上げられた。
しかも、その十一日後には『奥院御廟塔供養』が行なわれたんだが、ここで天海は『塔中勧請鎮座深秘式』を修した上に、『三種神器秘印明』をも修している。
天海は、家康に三種の神器を与えてしまったんだ。不二氏の言葉を借りると、まさに『天皇に対する霊的クーデター』ということだ。
今までわが国に君臨していた、唯一絶対の神ー天皇に取って代わろうというんだからね。クーデター以外の何ものでもないさー。これも表向きは、天海が自説をごり押ししたということになっているが、やはりこれは徳川家の打った大芝居だろうな。”
徳川家は江戸の守りと徳川家の守りを固めるために東照宮を作りあげる。
つづく。
こんばんは^^
天海=光秀ではないって決定的な証拠もあって、本能寺の変がなぜ起きたかを考えると理解できるのですが、光秀が護ろうとしたものを、天海は呪詛をかけているのです。
ただ、徳川家は不思議なくらい明智と縁があって、春日局はいいのかってことですからね。
東照宮は江戸の守りですが、天海はもっとすごい秘密のラインをひいています。
続きはまた今度で、また遊びに来てください。
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
平将門は実は怨霊ではないって証拠がいくつかあって、神田明神は政府の命令で祭神から将門を外した時期があります。帝都物語で怨霊だってことが有名になりすぎましたね。
源氏は不思議な血筋で、清和源氏の義朝と義賢、頼朝と義仲、頼朝と義経、頼朝と範頼などなど身内同士で殺し合いをしているんのですね。
足利将軍家もそうだし、甲斐源氏もそうで、そんなに身内を攻撃するって不思議です。
鉄道は江戸時代が終わってからなのでカバーできるかはわからないですが、江戸の話は続くのでまた遊びに来てください。
天海=明智光秀説は有名ですが、実際どうなのでしょうね?
春日局が、明智重臣・斎藤利三の娘だったことは知っていましたが、家綱の乳母まで明智関係者だったのは驚きです!
孫が大坂の陣で豊臣方として戦っていたのですね。それもびっくり!
来年の大河に向けて、もっと光秀を勉強しなきゃ~>_<
東照宮に、そんな天海の策略があったとは、奥が深い話ですね。
教えて頂き、ありがとうございました(*^-^)
また一つ、今後のお話しで楽しみなのが平将門都内の結界地場の鉄道開発にまつわる有名な話もあると聞いているのでその話題も楽しみにさせて頂こうと思います。
御朱印に関係して過去将門や、平家に関する仕事や参拝にてあまりいい結果を得られていない事実が、とらっちにありのようなことが多いので、さかのぼると源氏系なのかなと思えるようなことが多いです。
いつもお伺いしてから少しずれたrす内容になってしまいすみません^^