江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その20
- カテゴリ:勉強
- 2019/08/21 16:36:13
天海は家康を薬師如来と比定すすことで、日光東照宮を宇宙の中心に据え、江戸の北方の守りとした。もともと、仏教は現世ではなく来世の成仏を説く教えで個人の解脱を優先している。日本は最澄が天台宗を、空海が真言宗を開き、国家宗教として仏教が取り入れられた経緯があり、日本仏教は権力と結びつくことになる。
「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。
”天海が唱えた山王一実神道と、元々の山王神道との大きな違いというのは、
山王神道が山王神=釈迦を全ての中心に置いているのに対して、山王一実神道では、薬師如来を中心に置いている点だ。
輪王寺門跡の菅原信海氏の説によれば、真言密教ー東密の『覚禅鈔』に『胎蔵界の大日を、薬師と習う』とあり、また天台密教の『阿娑縛抄』には、『大日の修法に、薬師の印を用いて可なり』とあるという。つまり、薬師如来と大日如来は同体とされているんだ。ここでー
天台宗で、大日如来は天照大神と同異義語だし、かつ天照大神は釈迦と同体とされている。ところがここで、『渓嵐拾葉集』という書物にも書かれているように、釈迦は取りも直さず山王神だ。ということはー
薬師如来は、大日如来でー、
大日如来は、天照大神でー、
天照大神は、釈迦でー、
釈迦は、山王権現ということだ。
そして家康が、薬師如来ということは……。
家康こそ山王権現であり且つまた、全宇宙を統べる神に等しい、ということになる。
天海は、この大胆な構想を画策し、そして、実行に移したというわけだね。
さて、その天海は、それから八年後の、寛永二年(一六二五)に、江戸城の鬼門に当たる忍岡ー上野に、東叡山寛永寺を創建した。そして十三年後の、官営十五年には『東照宮縁起』を作成し、寛永二十年(一六四三)、十月二日に示寂する。享年百八歳といわれているが、諸説によれば百二歳ともいわれていて定かではない。そして、示寂後、慶安元年(一六四八)に慈眼大師と諡号され、今日に至っているわけだ。”
『神輿渡御祭』に参列するのは、山王権現と摩多羅神だった。摩多羅神とは。
”東照宮では、摩多羅神は源頼朝であるとされていて、摩多羅神の好物である、茄子の彫刻が東回廊蟇股に彫られている。茄子の彫刻がある寺社なんて、東照宮くらいのものだろう。とにかくー。
この神は、天台僧・円仁が、唐から帰朝する際に船中で感得した異形神で、比叡山特有の神なんだ。この神は、円仁の目前に突如現れるや『自ら摩多羅神にして、障礙神なり。自分を崇敬せずば、往生させぬ』と語った。そこで円仁は、延暦寺常行三昧堂に勧請して祀った。『摩多羅神は即ち摩訶迦羅天ー大黒天にして、またこれ荼吉尼なり』と『渓嵐拾葉集』にある。もともとは、疫病神だったのではないか、とも言われているんだ。その証拠に、摩多羅神の神歌には『摩多羅神は神かとよ、歩みをはこべ、皆人の願いを満てぬことなき』というのがあって、この『神かとよ』は『神だというらしいよ』という意味だ。つまり、神なのか? おそらくそうだろうーということで、よくは解らないんだ。
輪王寺の摩多羅神三尊像を見れば、左手に鼓を持って楽しそうに大笑いしている唐風烏帽子に狩衣姿の摩多羅神が中央に、そして右下には風折烏帽子を被った爾子多童子、左下には丁令多童子が、それぞれ右手に笹竹、左手に茗荷を肩に担ぐように持って乱舞している。そして丁令多は『シシリシニ、シシリシ』、爾子多は『ソソロソニ、ソソロソ』と歌っているという。
この『シシリシニ』というのは尻のことで男色を、『ソソロソニ』というのはソソー尿道のことで女色を表現しているという説もある。
つまりこれらは『淫欲熾盛』ー煩悩の極致を行ずる姿であるとされているんだ。ここから、玄旨帰命壇に発展していった。
これは天台宗の秘術の一つで、この『玄旨』というのは『煩悩即菩薩』ー妄念はそのまま悟りであり、『凡聖不二』ー凡人も聖人も同じ、であるちいう意味だ。一切諸法は悉くこれ仏法、というわけだな。修験道で言われている、天魔の偈と同じだ。
『天魔外道皆仏性 四魔三障成道来
魔界仏界同如里 一相平等無差別』
というわけだ。全てのものー魔すらもー仏象のひとつである、という思想だ。
帰命壇というのは、命を帰る壇(いのちをたてまつるにわ)、と読んで、人間の生死を司る法だ。『弥陀命息』によれば、帰命壇は別名を風息壇とも言い、『口と鼻から入る息は阿弥陀の来迎、出る息は往生』、つまり一呼吸一呼吸が阿弥陀の来迎と往生とされている。だから一説によれば、摩多羅神三神像で、摩多羅神は阿弥陀如来、丁令多は勢至菩薩、爾子多は観音菩薩ともいわれているんだ。そしてこれら三神像の上部ー摩多羅神の頭上には、杓形の北斗七星が描かれている。”
北斗七星は北極星とかかわりが深く妙見信仰と繋がっている。
つづく。
こんにちは^^
日光東照宮って歴史的に見ても恐ろしいことがあって、全部で644体と言われる霊獣や動物の彫刻ですが、馬はたった一カ所、酒井忠勝が慶安元年に奉納した十二支が全て彫られている五重塔にしかないんです。家康の干支の寅も家光の干支の龍もいたるところに彫られているのに忠長の干支の午は五重塔が奉納されるまでひとつもなかったんです。
家光の墓所の大猷院は北東を向いているのですが、その背にあたる南西には忠長が自刃した高崎城があるというくらい家光がいかに忠長を許していなかったかっていうのがわかる造りです。
実際に行って確かめることがたくさんありますよね。
その19から読ませて頂きました^^
日光東照宮の特集のTVで「日本大権現」の候補のことを聞きました。
凄いな~と思いましたが、まさか裏にはそんな深い構想があったなんて!
単純に、凄いな~で決められる問題ではなかったのですね^^;
話が深すぎて、うまく呑み込めませんが、とても勉強になりました(*^^*)