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江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その22

妙純傳持ソハヤノツルギウツスナリという名刀がある。国の重要文化財で、久能山東照宮内陣にご神体同様に祀られている。いうまでもなく徳川家康の愛刀で、筑後国の刀工・三池典太光世の作と伝えられることから、三池の刀とも呼ばれる。
『東照宮御実紀』によると「死の直前に駿府奉行の彦坂九兵衛光正に命じてこの刀で罪人の試し切りをさせたとか、西国の大名へのおさえとして、切っ先を西に向けて安置するように命じたとされている。

しかし、東京帝国大学名誉教授の中村孝也博士は、家康について、4月11日以降は、家康は意識を失い、自らの意志に基づいて行なわれたことは皆無だったはずだ。としている。この三池の刀の伝承も作り話だった可能性が高い。

だが、家康が西のことを気にしていて確かだ。

「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。

陽明門の唐破風に掲げられた「東照大権現」の額は後陽成天皇の宸筆で、拝殿長押の上の三十六歌仙の和歌は後水尾天皇から拝領したもので、板垣退助が東照宮の焼き討ちを主張する薩摩藩を説得する材料としたという。

後陽成天皇と後水尾天皇ということ陽成天皇と水尾天皇が存在したことになる。

”水尾帝ー清和天皇のことだ。
清和天皇といえば、文徳天皇と、時の権力者、藤原良房の娘の明子との間に生まれた皇子で、良房の政治的な圧力によって、わずか九歳にして皇位についた天皇だ。そのためにー清和天皇が直接関知しているわkではないにも拘わらずー宮廷の内外から嫌悪の声が上がり続け、常に心を痛め続けていたという天皇だ。しかも、清和天皇の元には、良房の兄である長良の娘、高子が入内している。”

高子は「伊勢物語」第6段に出てくる「鬼一口」の話で有名で、在原業平と駆け落ちして、兄の基経に無理矢理に連れ戻され、業平は東国へ逃げ延びた。

”高子は、貞観十年(八六八)ー応天門の火災の二年後に、後の陽成天皇である貞明親王を生み、見事に女御となった。”

清和天皇と陽成天皇から後水尾天皇と後陽成天皇と諡号される。清和天皇が父で息子が陽成天皇、後陽成天皇が父で息子は後水尾天皇と順序は入れ替わっているが、彼らは同じ境遇だったから同じ名前が諡号となった。

”後水尾天皇と後陽成天皇の頃の江戸時代は、良房の頃の平安時代と全く同じような状況にあった、という立派な証拠になる。
清和天皇の立場に立ってみれば、現実の政治は完全に良房が取り仕切っていたし、自分の母も妃も藤原氏だ。完全に、藤原氏に包囲されていた。
清和天皇は貞観十八年(八七六)、大極殿の炎上に酷くショックを受けられて、その七ヶ月後に、二十七歳で自ら皇位を下りてしまう。その三年後、元慶三年(八七九)五月に、粟田院ー後の円覚寺で剃髪し、仏門に入ったんだ。そして、在原行平らを従えて諸国の寺院を巡礼し、元慶四年十二月、三十一歳で薨去した。つまり、清和天皇は、摂政登場後の弱体化した天皇家の象徴とされている。”

家康の時代も、天皇家は弱体していて、後陽成天皇も後水尾天皇も徳川家の力に押さえつけられていたということになる。

つづく。

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2019/08/27 15:40
>ゆりかさん
こんにちは^^
日光東照宮は徳川宗家の象徴なので、関ヶ原の恨みも純化している薩長にとっては地上から消し去りたいものなのでしょうけど、尊皇を掲げて錦の御旗を立てている官軍が、天皇の宸筆を焼くわけにはいかないですからね。

徳川のレイラインは計算されていて、今推測されているものが正しいかどうかすらわからないくらいで。地図を広げるだけで検証できるのは面白いですね。
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2019/08/24 08:39
おはようございます、kiriさん。

日光東照宮が、板垣退助の尽力によって焼き討ちを免れた話は、どこかで聞いた気がしましたが…
まさか東照大権現の額が天皇ゆらいのものだったとは。
それは恰好の説得材料ですね^^
三池の刀の伝承は、全く知りませんでした。
作り話だったとしても、実際に見てみたいですね。

教えて頂き、ありがとうございます(*^^*)




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