江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その23
- カテゴリ:勉強
- 2019/08/27 16:13:57
日光東照宮はなぜ宮なのだろうって考えたことある?
伊勢神宮は正式には「神宮」という。
他に「宮」がつく神社は「香取神宮」「鹿島神宮」「明治神宮」などなど多いけれど、国譲りや皇室の祖先神、天皇そのものを祀るときに使われている。
例外は菅原道真を祀った「北野天満宮」で、「出雲大社」「熊野大社」「住吉大社」など大きな神社にも許されていない「神宮」の称号を臣下を祭神としている神社として許されている。
菅原道真は天神で、冤罪で流され朝廷と藤原氏に酷く祟ったため、太政大臣の位を贈り、神宮として祭り上げた。のだが、家康も大権現として祀り上げられ、神宮の称号が許された。大権現は伊弉諾、伊弉冉と同じ位で、神宮として格付けなので天皇として扱われたことになる。
「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。
”東照宮はそれだけではない。例幣使も復活させたんだ。
例幣というのは、朝廷から神に奉献される贈り物のことだ。ぬさ、とも言う。その例幣を神社に届ける役目が例幣使だ。江戸時代になる頃には、こういった習慣は全く廃れてしまっていたんだが、正保三年に、東照宮に対しての例幣使が復活した。そしてそれ以降、これは制度化されて、延々と慶応三年(一八六七)、明治維新の前年まで、二百二十年にも亘って続けられることとなったんだ。しかも、この日光の東照宮の例幣使復活によって、応仁の乱以降、文正元年(一四六六)以降途絶していた伊勢神宮への例幣使も復活した。但し、復活したのは、この二つの神宮だけだ。そして伊勢神宮は、垂仁天皇の代に皇女倭姫命が、鏡と剣を奉じて創始したといわれる、特別な位置付けの神宮だ。
家康は、代々の皇族神と、同格になったということだ。
しかし、これこそが、天海の仕掛けたクーデターの一環なんだよ。家康こそが、日本の天皇なんだからね。東照宮のおかげで、伊勢神宮の例幣使もある。つまり、家康のおかげでー
ー天皇家があるということー
それほどまでに権威と権力がある、ということを人々に知らしめたわけだ……。ただ、これらは家光の時代のことだから、確かに徳川家の権力は絶頂期を迎えようとしていたのは事実だ。しかし、家康の頃から、すでにその兆候は明瞭に見えていた。それを暗示する事件の一つとして『徳川和子入内』がある。
和子は、慶長十二年(一六〇七)十月四日、二代将軍秀忠の五女として誕生した。その時、家康はゆくゆくはこの和子を入内させて、その皇子を天皇に立てることを画策したんだ。つまりー徳川の血を引く天皇を、とね。
この時期、家康の力が天皇家を完全に押さえ込むほどに圧倒しているわけではなかった。天皇が激怒して、家康か徳川宗家を朝敵とする余地は残っていた。
つづく。