Nicotto Town



江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その24

「逆説の日本史10 戦国覇王編」井沢元彦著によると。
”日本で唯一の正統な権力者は天皇である。そのことは悠久の昔にアマテラスの「天壌無窮」の神勅(神の命令)によって定められている。
それゆえ、天皇家が日本の統治者として君臨した後は、天皇家の権力が衰えることはあっても、その権威が失われることはなかった。
平安時代、天皇を事実上の「飾り物」にしてしまった藤原氏でさえ、その権力の正当性つまり「権威」は、天皇から関白に任ぜられたということだった。反逆者平将門ですら八幡大菩薩(応神天皇の神霊)の「お告げ」によって新皇となったのだし、武家として初めて政権のトップになった平清盛もやはり太政大臣(天皇の臣)であることが権威の裏付けであった。
その平家を倒し、まったく新しい政権を打ち立てた源頼朝も、その「権威」は、天皇から征夷大将軍に任命され日本の「軍政」を一任されたという「形式」に基づいていた。その権力を源氏から奪った北条氏も、あくまで将軍の補佐役(執権)という形をとり続けた。天皇家の力が最も衰え、ある意味で平安時代よりも「飾り物」であった室町時代初期、日本に類例のない強大な乾隆奥を築こうとした足利義満でさえ、その目標は上皇つまり太上天皇になるという「天皇家の権威」に依存したものだった。”

豊臣秀吉は関白となって天下人となり、徳川家康は征夷大将軍となって天下を治めた。明治になって大政奉還ののちは天皇親政で、立憲君主国となった。それは敗戦後74年経ってもかわらない。

唯一、織田信長だけが「日本人の宗教観」を完全にたたき壊して、宗教色を薄めたように、朝廷の権威も完膚なきまでにたたき壊して、新しい国のあり方を考えていたのではと思われる。だからこそ、そんな時代を恐れた明智光秀に討たれたのではないか。ともいえる。

秀吉のあと、天下を取った家康は天皇家の権威を利用する道を選んだ。それはたたき壊すより遙かに安易な方法であったが、同時に天皇家にとってはいままでなんども経験してきた対抗策を採りやすいやり方でもあった。

「QED 東照宮の怨」高田崇史著によると。

家康が孫の和子を入内させるべく画策したころ、
”禁裏内において発生した不倫事件に絡んで後陽成天皇は、烏丸光広らの公家を、厳罰に処すべく勅命を下したが、家康はこれに反対して、その罪の軽減を命じた。このことに激怒した天皇は譲位を決意したが、これも家康は、幼女の死亡を理由に上位の延期を願い出たんだ。このことは、天皇の怒りに、火に油を注ぐ結果となった。
良房の時代のように、完全に抑えられていたならば、ただ黙ってその意見に従うしかなかっただろうがねー。そんなこんなのあげく、やがて慶長十六年四月、政仁親王ー後水尾天皇が即位する。そして九年後の、元和六年(一六二〇)、和子入内の運びとなった。
和子の入内は、その前年の元和五年ということで、下相談がまとまっていた。しかしその直後、後水尾天皇と、御与津局との間に、皇子、賀茂宮が誕生したことが発覚した。
当然、この賀茂宮が皇位継承権第一位の座にいるということだ。しかも、その元和五年には、第二皇女、梅宮も誕生してしまった、
幕府は朝廷に対して、その行跡をなじった。”

庶民の考えなら、後水尾天皇がやっていることは責められても仕方がないことだが、天皇家がやることだ。血筋第一で後宮を設けることも当たり前だった時代に、臣下のはずの徳川家から、なじる声が聞こえてきたことで、激怒した後水尾天皇は譲位を申し出ることとなる。

つづく。

アバター
2019/08/30 01:25
>ゆりかさん
こんばんは。
徳川宗家からの入内は和子だけなので、天皇となったのは興子内親王が明正天皇となっただけですね。
昭和3年に秩父宮雍仁親王へ松平容保の六男・松平恆雄の娘の節子が輿入れして、一時は雍仁震央が皇位継承権第一位だったため、親王が誕生すれば徳川の血を引く天皇が誕生した可能性はあったのですが、残念ながらお子様は誕生しなかったようです。
ちなみに、松平節子の輿入れに際して、わざわざ朝敵の娘をという声があって、昭和といえどもそんな時代でしたね。
アバター
2019/08/29 07:41
おはようございますkiriさん。

その23から読ませて頂きました^^
藤堂高虎を調べていた時に、彼が尽力した『徳川和子入内』を知りました。
男児は早世してしまい、女児が明正天皇になったようですが…その後は、徳川の血を引く天皇はいなかったのでしょうか?

朝廷の権威を叩き壊そうとしたことが、本能寺の変の動機だったという考え方も面白いですね(*^^*)




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.