Nicotto Town



江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その25

善く師する者は陣せず
善く陣する者は戦わず
善く戦う者は敗れず
善く敗るる者は滅びず
(「漢書ー刑法志」)

「玻璃の天」北村薫著の中で主人公の英子の運転手、ベッキーさんが老先生に聞かされる言葉だ。

”うまく軍を動かす者なら、布陣せずにことを解決する。しかし、その才がなく的と対峙することになっても、うまく陣を敷ければ、それだけでことを解決でっきる。さらに、その才がなく実戦となっても、うまく戦えば負けない。”

徳川家康は朝廷相手にも一歩もひかず、戦上手で老獪な狸だった。直江状で責め立てた直江兼続も、関ヶ原で対峙した石田三成も敵ではなかった。

「東照宮の怨」高田崇史著によると。

譲位を申し出た後水尾天皇に対し、

”秀忠は、天皇に奏上したんだ。つまり……和子の入内に関しては、これは先帝、後陽成天皇から家康への勅許である。それにも拘らず、入内取り決め後に姫、梅宮の誕生は、はなはだ不謹慎極まりない。これはひとえに側近の罪である。『かかる取締なき宮中へ、徳川和子を入内させるは、我らが本意にあらず。入内の儀は恐れながらご辞退申し上げたし』ーとね。つまり、縁談破棄の申し入れをした。
この『下』から『上』への、婚儀取り消し通告には、天皇も公家も大いに憤慨した。だが、これを認めてしまっては、後水尾天皇の顔に泥を塗る結果を残してしまう。歴史的に見ても、大いなる恥になる。そこで天皇は譲位を取り止め、御与津局と梅宮を御所から斥け、側近も三名、流罪にするなどして、幕府との間を取り成すことに決定した。これは、徳川家が自らの権力を天下に知らしめる第一歩となったわけだ。しかし、この事件によって天皇家には、幕府に対する大きなわだかまりが、奥深く沈殿した。
元和六年、六月十八日。徳川和子は十四歳にして、後水尾天皇の元に嫁いだ。秀忠の一代記である『東武実録』は、全四十巻のうち七巻もこの慶事に費やしているほど盛大にね。
そして、和子の入内に伴って幕府は、御賄頭兼御納戸頭を宮廷に送り込んだ。その上、禁裏附や仙洞附も設置した。
これらは、老中の支配下にあって、所司代の指揮を受けて、禁裏の警護や用度を司り、同時に公家以下の行動を監督・監視する役目を受け持っている。つまり、徳川幕府は宮廷を、財政と警備の両面から身動きが取れない状態に縛り付けてしまったというわけだ……。そんな中、後水尾天皇と和子との間に興子内親王が誕生し、和子は中宮となった。ここで一旦は穏やかになったように見えた、幕府と朝廷との間に、再び問題が沸き起こった。それが『紫衣事件』と呼ばれている大事件だ。”

徳川和子の入内にかこつけて朝廷の力を削ぐのは戦わずして相手を屈服させる。抵抗できない朝廷はどんどんと恨みをためこみ純化させていくのだが。

つづく。





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