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江戸は怨霊慰撫の街って知ってた? その26

編集の仕事でお世話になった先輩から教わったことがあって、
「江戸時代には、論語が書けて読める人がゴロゴロいた。戦前は読める人がたくさんいた。今はほとんどの人が書くことも読むこともできない」と。

もちろん、論語が学問のすべてではないし、数学や外国語など江戸時代には一般的ではなかった学問も多くの人たちが勉強していることもあるし、どちらがいい悪いって話ではない。

ただ、読めて書けるくらいちゃんと勉強した人が多かったってことは、江戸時代の頭のいい人達は間違えのないように物事をきちんと進めたってことだ。

朝廷絡みならなおさら。

「QED 日光東照宮の怨」高田崇史著によると。

”紫衣、というのは、建長元年(一二四九)以降、天皇が高僧に下賜した僧衣のことだ。つまり、この紫衣ー紫の袈裟を戴いているということは、天皇家に認められた地位にいるという象徴になるわけだ。そして寛永四年(一六二七)、秀忠の意向を汲んだ老中の土井利勝と、所司代の板倉重宗とが談合して、幕府の認証を得ていなかった、元和以降の勅許にとる五山十刹の認許、七、八十人分を、全て無効にしてしまった。
紫衣は、それまで天皇の専権事項だったにも拘らずだ。だから、この事件は、朝廷の権威を著しく傷つけることになったわけだ。特に大打撃を受けた大徳寺では、沢庵宗彭らが訴状を提出して抵抗したが、逆に全員罰せられて、出羽や津軽に流されてしまったんだ。そして、この事件が原因で後水尾天皇は再び譲位を決意した。しかし、寛永五年六月の、高仁親王の薨去などがあり、またもや譲位は延期されることになった……。ところが、また更に朝廷の権威を傷つける事件が起こる。
寛永六年十月。家光の乳母の斎藤氏福が、家光の代参として伊勢神宮に詣でて、そのまま上洛し、天皇への拝謁を願い出たんだ。福は、確かに大奥内では権力者に違いなかっただろうが、一般的に考えれば無位無冠で、単なる武家将軍の乳母にすぎない。そんな一介の女性が天皇の謁見を受けるなどということは、当時の常識からすれば、全く考えられないことだった。しかし幕府は、所司代から朝廷に大きな圧力をかけて、福を形式上、三条実条の妹であるということにして、参内謁見を実現させてしまった。それどころか、福は和子から、春日局という局号まで賜ってしまう。これには天皇自らも『嘆ずべきこと』だとおっしゃられ、

芦原よ茂らば茂れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

と歌われた。また、この事件に関して周りの人々は『希代の儀なり』とか『帝道、民の塗炭に落ち候事か』などと、嘆き囁いたんだ。
その結果としてー同年十一月。後水尾天皇は、憤激の余り興子内親王に譲位してしまう。これには幕府もさすがに世間体を考えて激しく抗議をしたが、後水尾天皇の意志は堅く、その譲位を渋々追認せざるをえなかった。そして興子内親王は、翌年の寛永七年、九月十二日に明正天皇として、七歳で即位した……。ここで、二代に亘って、天皇が幕府への不満を理由に退位されてしまうという緊急事態が起こってしまったといううわけだ。
その後、慶安四年(一六五一)五月六日に、後水尾天皇は落飾されて法王となった。このことについても、幕府には事前の連絡もなしでね。
当然、幕府の強引なやり方に対して、かなりの不満はあっただろうと思う。だがそれも表立っては何も言えなかっただろうからね。しかし、さすがに忿懣を爆発させた人物もいた。それが由井正雪だ。
同年七月。由井正雪は丸橋忠弥と床に倒幕の兵を挙げた。菊水の旗まで用意してね。菊水、といえばもちろん楠木正成だ。そして楠木正成といえば『七度生まれ変わって、朝敵を討たん』と遺言したとされる人物だし、由井正雪は実際に門人たちに楠木流兵学を教えていた。だが、この計画は幕府の密偵によってあっさりと漏れ、正雪は自刃してしまった。幕府の力は、この程度では揺らぎもしなかったということだ。
こんな文書がある。『細川家記』忠興譜の寛永六年、十二月二十七日の部分だ。ここには、後水尾天皇譲位の真相について、『隠し題』ー表沙汰にできない裏の事情ーとして、ちょっと信じがたい事実が述べられている。
譲位の理由として。
一、禁中経済、窮乏のこと。
一、公家衆官位、天皇の意のままにならぬこと。
一、御料増加、金銀献上はあっても、天皇の自由にならぬこと。
一、公家衆への感賞の有無を表すべき道のないこと。
一、先例にない、米金銀の貯蓄を市民に貸し付けること、末代までの謗りとなること。
一、大徳寺、妙心寺住持職の口宣案を、一度に七、八十枚も破棄されたこと、天皇としてこれ以上の恥はないこと。
そして、これに続けて最後にこうある。
『御局衆の腹に、宮様いか程も出来申し候を、押し殺し、または流し申し候。事の外むごく御無念に思し召さる由に候、いくたり出来申し候共、武家の御孫より外はは御位には付け申され間敷に、余りにあらけなき儀と、深く思し召さる由に候』ーとね。
後水尾天皇の皇子が何人生まれようとも、和子との間にできた皇子以外は全員ー
幕府の人間の手によって、殺されてしまったということだ。
実に『余りにあらけなき』ーむごく乱暴な、行為だ……。もう一つ付け加えるならば、先に出てきた賀茂宮も、わずか五歳で夭折されている。
しかも、その原因は未だに不明のままだ。”

家康が三池の刀の切っ先を御所へ向けた意味は、武力には武力を、天皇家の『呪』には『呪』で対抗するという意味だった。そして、家康が自らを埋葬せよと命じた久能山、生母、於大の方が懐妊の祈願をした鳳来山、そして家康誕生の地である岡崎は地図上で一直線で、延長線上には御所があるのだから。

つづく。





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