自作八月/逢瀬・夏の虫 「蛍籠」
- カテゴリ:自作小説
- 2019/08/31 20:54:10
「今夜もよろしくね」
佳紫子(よしこ)が格子を下げると、御簾の向こうにいる御方が腰を上げた。
左大臣家の姫である女主人は、いそいそと単衣を脱ぎ捨てて、自ら少年がまとう水干に腕を通し、ぬばだまのごとき長い黒髪をひとつに結わえた。その手際の良さに佳紫子は呆れた。
「姫様、またもや、おしのびでございますか?」
「ええ、藤吾さんに笛を教えてもらうの」
まったく、はしたない。
幼なじみにして、長年側仕えを務める佳紫子が文句を言い出す前に、姫は御簾の向こうからさっと這い出てきて、急いで襖を開け、後は頼むと部屋から出ていった。持ち物は横笛一本。それだけだ。
この数ヶ月というもの、姫はあずまの国から流れてきた武士に夢中である。右大臣家が雇った用心棒で、若君の護衛についているらしい。実直で真面目な人らしいのだが、笛をたしなみ、その腕前は相当なもの。右大臣が時折、宴に呼んで吹かせるほどだという。
出会いは必然であった。その武士は、姫のもとへ通ってきた若君を守るために、ついてきたのである。
若君は鼻高々、こやつは笛の名手なのだと姫に彼を紹介し、その腕前を披露させたのであった。
「ほんと、あそこの若様は、少々どころじゃないお馬鹿さんですわ」
姫はたちまち、見目良い笛吹き武士に惹かれてしまった。それ以来、しばしば男装して、こっそり近くの神社で武士と逢瀬を繰り返している。
少年に身をやつした姫には、佳紫子の弟がつかず離れず護衛につく。だから姫の身の安全を心配することはないのだが。
「毎回、朝帰りになるのはちょっと……。ここに通えるほどのご身分ではない御方に執心するなんて、困ったものです」
やんごとなき姫たるものは、その身分にふさわしい公達が通ってくるのをただただ、私室で待つものである。こちらから会いにでかけるなど、実に卑しい行為であるのに。
佳紫子はため息をつきながら、御簾の向こうに入った。脱ぎ捨てられた単衣をきちんと畳み、一番上に羽織る唐衣だけ、自分のものと取り替える。真紅で鶴の透かし織が入った見事な錦だ。
今宵もまた、姫のふりをしなければならない。
脇息にそっと肘を置いて、佳紫子は背筋をぴんと伸ばして台座に座した。
ほどなく襖が開けられて、快活な声が部屋に響いた。
「姫! こんばんは! ねえ見て下さい! 見て下さいよ!」
右大臣の若君だ。姫より五つ年上のはずだが、実に無邪気で屈託のない人である。彼は挨拶もそこそこに、御簾の前に何か細長いものを置いた。
御簾から透けてみえるそれは、麦藁を編んで作られたものらしい。細やかな編み目は巻き貝のような模様に編まれていて、美しい螺旋を成している。
「それはもしかして」
「ああええと、灯りを消しますね。そうしたらよく分かりますから」
若君は部屋の灯りを吹き消した。しかし部屋は真っ暗にはならなかった。若君が持ってきた細長い螺旋を成すものに、ほのかに照らされている。螺旋の筒は、なんとも淡く柔らかな光を放っているのだ。
ほどなくそれがゆっくり明滅し始めたので、佳紫子は思わず、まあと声をあげた。
「蛍ですか?」
うっかり姫の口真似をするのを忘れてしまった。佳紫子は慌ててごふんごふんと、風邪で声がおかしいのだと言いたげに咳き込んでみせた。
「今日、川で取ってきたんですよ。姫に見せたくて」
「わ、わたくしに、ですか。ありがとうございます」
「いっぱい取ってきたんです。だから大きい蛍籠を作ったのですよ」
「ほ、本当ですね。両手で抱きかかえないといけないほど、大きいですわね」
若君は実に無邪気で幼い人だ。顔も童顔だからひどく若く見える。腕白小僧といった風情であるので、姫は、頼りなげな人だと思ってしまうのだろう。決して悪い人ではない。だが佳紫子も、この人はもっと大人になったらよいのにとしばしば思うのだった。
虫を持ってくるのはこれが初めてではない。カブトムシだのトンボだの、毎回のように捕まえたものを見せにくる。甘いお菓子を持ってきたり、面を被ってごっこ遊びをしようなどと誘ってくることもある。歌詠みや雅楽などはまったく興味がなさそうで、蹴鞠をするときはしごく本気で勝負する。奔放で、人を疑うことを知らない。
その幼さはいつも、格好の言い訳になった。
「本当にあなた様は、幼い子どものようですわ」
佳紫子はつんとして言った。呆れかえった反応をして、御簾の中には決して入れず、早々にお帰り願う。そんな、いつもの手順を踏もうとした。
「わたくし、かように子どもっぽい御方とは……」
しかし、彼女の冷たい声は途中ですぼんだ。
「あ……」
蛍籠が激しく明滅したからだ。
何事かと思いきや、たくさんの光の粒が、籠から一斉に飛び出した。まるできらきらまたたく星が流れ出てきたかのようであった。
「あはは、ありったけ取ってきたんですよ」
その光の絢爛さに、佳紫子は息を呑み、しばし見とれた。部屋中に広がった光は明滅し、部屋にきらびやかな星空を成した。黄金色の輝きが、佳紫子の目を静かに焼いた。
「なんて……なんて美しい……」
「お気に召しましたか?」
「え、ええ。言葉を失ってしまいました」
よかったと、若君は明るく笑った。
「素敵な贈り物とお気持ちをありがとうございます」
佳紫子が上品に頭を下げると、御簾の向こうから少し低い声が流れてきた。いつもとは雰囲気の違う、真摯な声が麗々と。
「いつもあなたのいるところを、照らしたいです。どんなに暗い夜でも」
「えっ……」
いつもの若君らしからぬ言葉に、佳紫子はどきりとした。若君が近づいてくる。今にも御簾を押し上げてきそうなぐらい近くに来る。
「お、お待ちください」
佳紫子は焦った。難癖をつけて突っぱねなければ。早々に帰ってもらわなくては。
どきんどきんと心臓が早鐘を打つ。その鼓動に合わせて蛍が明滅する。
どきんどきん。きらりきらり。どきんどきん。きらりきらり……
「中に、入っていいですか」
「い、いや、だ、だめで……」
「いいですよね、佳紫子さん」
「ええっ……!?」
姫では無いことがばれている? 佳紫子はたちまち固まり、ぼたりと扇子を落とした。
御簾が上がる。若君が楚々と入って来て、満面の笑顔をこちらに向けてきた。
「あは。やっと入れました。ああ、こわがらないでください。姫じゃないことは、始めから知ってましたよ。うん、何ヶ月も前から」
若君は、握っている右の拳をそっと佳紫子の前で開いてみせた。
小さな蛍が彼の手の中にいた。
「僕、藤吾に姫と逢い引きするように命じたんですよ。姫を家から引っ張り出して欲しいって頼んだんです。だって僕が会いたいのは……」
わずかに伏せられた瞳に、蛍の光が映り込む。
佳紫子は呆然とその光を見つめた。そっと手を伸ばすと、若君は蛍を彼女の手に移してきた。ひとこと、囁きながら。
「好きです、佳紫子さん」
どきん。
佳紫子の鼓動がまた、光の明滅と重なった。
きらりと、まばゆく。
蛍籠 了
佳紫子姫は、お馬鹿さんだと思っている若君の掌で踊り、挙句に排斥されてしまった。
現代アレンジ
佳紫子さんが幸せになりますように
短い夏の夜を照らす蛍の光と恋心。
蛍籠を開け、部屋へ放つ。
御簾を開け、思いを伝える。
素敵な夏の夜^^
佳紫子と一緒にどきどきしちゃいました。
御簾一枚隔てたやりとりっていいよねぇ
部屋いっぱいにホタルが広がったところを想像して感動しちゃいましたよ。
後でばれましたら、家の一大事に成りますね。