楠木正成は怨霊となったのか? その1
- カテゴリ:勉強
- 2019/09/05 16:59:54
東京都千代田区皇居外苑南東の一角に、楠木正成公の銅像があります。
正成像を高村光雲、馬を後藤貞行が制作し、明治33年7月に住友家が別子銅山開山200年を記念して献納したもので、明治維新以後南朝正統論の薫陶を受けてきた維新志士たちが南朝の復権を実現したものとも、南朝への怨霊慰撫とも言われている。
湊川の戦いで自刃したときに、「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国に報いん」と誓った「七生報国」の伝説によって、戦前の日本では楠木正成は大楠公として忠臣、足利尊氏は逆臣とされていたくらいだった。
東京三大銅像は靖国神社の大村益次郎蔵、上野恩賜公園の西郷隆盛像ともうひとつが楠木正成像で、ほぼ同時期に作られている。大村益次郎は不平士族による暗殺、西郷隆盛は西南戦争で自刃であるから、怨霊慰撫とも言えるけれど、維新の立役者ふたりに対して、楠木正成ではバランスが悪い。
ちなみに楠木正成が忠誠を誓った後醍醐天皇の御霊殿が横浜の總持寺にあり、御霊殿の前の拝殿では焼香をするようにお参りしていた。焼香ってお葬式のときに行なわれるものなので、これも一種の怨霊慰撫ではあるのだけれど。
住友家の本家は大坂だけれども、住友財閥の基礎となったのは別子銅山で、出自から考えても住友家と楠木正成はまったく結びつかない。大坂が地盤だからっていうのは理由にならない。なぜなら、豊臣秀吉のほうがはるかに有名だったし、維新の志士でももっと適当な人物がいたからで、別子銅山開山200年記念となると、なぜ楠木正成と伊予国ってなるのだ。
関わりというと湊川の戦いで大森盛長が楠木正成を敗走させて自刃に追い込んだとして讃岐国を報償として与えられているが、大森盛長こそ伊予国の住人であった。のちに、伊予国の矢取川で楠木正成の怨霊に取憑かれるという話があり、歌舞伎にもなっているのとしても、銅像にするには根拠が薄い。
住友の出自から考えても、南朝シンパではなさそうなのだが、いったいどんな縁があって銅像が建てられたのだろうか。
つづく。
こんにちは。
「七生報国」は弟の正季が言ったとされているのですが、そこにいた人間は全員が自害しているので、本当のことは誰にもわからないのです。
銅像は後醍醐天皇が船上山から京に戻る際に、京近くの兵庫で正成が出迎えたときの姿と言われています。といっても写真が残っているわけではないのですけどね。
今回は、楠木正成ですね^^
「七生報国」は、実は弟の楠木正季が言ったと友人から聞いたのですが、本当のところはどうなのでしょう??
銅像が建てられた由来も楽しみです(*^^*)