楠木正成は怨霊となったのか? その3
- カテゴリ:勉強
- 2019/09/09 16:54:07
楠木正成が赤坂城の戦いから湊川の戦いまでずっと大軍を相手としているが、真正面からぶつかったのは湊川の戦いだけだった。正成の息子の正行も真正面から敵とぶつかったのは四條畷の戦いだけで、いずれも破れて自害したとされている。
鎌倉幕府軍を翻弄して90日間も千早城を守り抜き、倒幕の流れを確立させた正成が、死地へ赴く戦いをして玉砕するものだろうか。湊川は正成にとっては地元も同然、逃げようと思えばいつでも逃げられたにもかかわらず。
後醍醐への忠誠がそれだけ強かった証拠なのか。悪党の楠木正成はどんなに忠誠を尽くしても、武家というものをまったく理解できない後醍醐天皇に献策を退けられている。新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが豊島河原合戦で、足利尊氏を今日から追い落としたときに、足利尊氏と和睦すべしとの献策も、足利尊氏が勢力を盛り返したときに、後醍醐天皇は吉野へ遷座して、今日を明け渡してから攻め落とすべしとの献策も後醍醐天皇は却下している。
「逆説の日本史7中世王権編」井沢元彦著によると。
”敵を侮った最大の原因は、後醍醐も公家たちも武士たちを虫ケラのように考え、その力を軽視というより蔑視していたからだ。
後醍醐の「側近」で後に南朝方の理論的支柱となった北畠親房が著書『神皇正統記』の中で、後醍醐の倒幕について次のように記していることでも明白である。
鎌倉幕府の命運は既に定まっていた。後醍醐帝が勝ったのは人の力ではなく神の思し召しである。そもそも武士というのは長い間朝敵であった。帝に味方してその家をつぶされないだけでも、余りある皇恩であるのに、このうえ恩賞を望むとは何事であるか。武士たちは天の功を自分たちの功と思い違いをしているのである。(『神皇正統記』「人の巻」)
つまり、鎌倉幕府を倒したのは武士たち(の軍事力)ではなく、天の意向であり帝(後醍醐)の御威光である、ということなのだ。
言うまでもなく、幕府とは現実に存在した軍事力であるから、それを倒すのは軍事力でしかない。
ところが、貴族たちはそうではない、と言う。
「バカな奴等だ」と笑う資格が現代の日本人にあるだろうか?
少なくとも「戦後五十年の平和は平和憲法(日本国憲法)によって守られた」と主張する学者や文化人には、北畠親房や後醍醐を笑う資格はない。この学者たちは結局「日本が平和だったのは安保(つまり米軍の軍事力)や自衛隊(日本の軍事力)のおかげではなく、憲法様の御威光による」と言っているのと同じだからだ。”
どんなに素晴らしい理念があったとしても、知恵を絞って試行錯誤して実行できるように努力しなければただの絵に描いたもちに過ぎない。現代の日本は「戦争をしない、平和な世の中にするためには、どうすればいいか」という議論をするだけでも「とんでもない」って人間が数多く存在している。まるで、「戦争」って言葉を使わなければ戦争にならないかのように。それは、武家の軍事力のことを無視し続ければ自分たちが望む通りになると考えていた後醍醐や公家たちとかわらない。
楠木正成は後醍醐に懸けて、知略を絞って鎌倉幕府を倒した。それが、お前の力は関係なくて、天が自分たちの正しさを認めたからだなんて言われて、武家をないがしろにする政治をしていたらどう思うのだろうか。
つづく。