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楠木正成は怨霊となったのか? その4

足利家も新田家もともに清和源氏八幡太郎義家の血を引いていて、義家の子で荒加賀入道といわれた義国から始まっている。義国の長男が新田氏の祖である義重で、次男が足利氏の祖となる義康だった。弟の義康が父義国から下野国足利荘を相続し、異母兄の義重は父義国とともに上野国新田荘を開拓した。

足利氏は実朝で途絶えた源氏嫡流ののちに、もっとも格の高い家柄として幕府執権の北条氏と代々縁を結んでいて、東国の武士たちも足利家には一目置いていた。

正慶2年、鎌倉幕府に反旗を翻したとき、足利尊氏は29歳で従五位上で前治部大輔、33歳の新田義貞は無位無冠だった。石田三成が従五位下で治部少輔だったから、尊氏はそれより上だった。

足利尊氏は六波羅を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉を攻め滅ぼして、鎌倉幕府は倒れた。尊氏は源氏の嫡流で官位も高かったことから兵が集まったのは当然だが、無位無冠の新田義貞は、尊氏の嫡男の千寿王が参戦したからとの説もある。一所懸命の東国武士にとっては、幕府にくしで義貞についたというよりも、官位が高い尊氏が嫡男を鎌倉攻めに参加させたことで遅れてはならじとなったと考えるほうが自然だ。

鎌倉幕府がどうにもならないことは誰の目にも明らかだったし、武士の政権を続けるためにも新しい血を入れてつくる必要があったからだ。

いざ幕府が倒れると、後醍醐天皇が親政を取ることになった。

そして、二条河原の落書で

"此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)

器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ
巧ナリケル詐(いつわり)ハ ヲロカナルニヤヲトルラム

為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍
タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好(いろごのみ) イクソハクソヤ数不知(しれず) 内裏ヲカミト名付タル
人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ
尾羽ヲレユカムエセ小鷹 手コトニ誰モスエタレト 鳥トル事ハ更ニナシ
作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス

ハサラノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕
下衆上臈ノキハモナク 大口(おおぐち)ニキル美精好(びせいごう)

直垂猶不捨(すてず) 弓モ引ヱヌ犬追物
落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ
遍(あまねく)ハヤル小笠懸 事新キ風情也

京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也

田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也
茶香十炷(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス

町コトニ立篝屋(かがりや)ハ 荒涼五間板三枚
幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ
諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ
去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ
適(たまたま)ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ

非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル
朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ
サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ

天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル
京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ ”

と風刺される世の中へとなっていく。

つづく。





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