楠木正成は怨霊となったのか? その5
- カテゴリ:勉強
- 2019/09/13 16:38:53
後醍醐天皇は歴代の天皇の中で突出して独裁職が強い人物だった。日本は長い歴史を持っていて、独裁者が出たことも何度もある。
しかし、織田信長にしろ、井伊直弼にしろ、大久保利通にしろ、原敬にしろ、強権を持って民衆を従わせようとした人物は暗殺されている。暗殺までいかないまでも、独裁者は部下達によって引きずり下ろされいなかったことにされる。
それは政治家だけではなく、経済の世界でも同じで大企業で独裁色の強い経営者は確実に降ろされる。なぜかというと日本人は話し合いで決めるという輪から外れることを極端に嫌うからだ。
「逆説の日本史6中世神風編」井沢元彦著によると。
”何はともあれ、後醍醐天皇が為そうとしたことは「行革」それも日本史上まれに見る「大行革」であった。
これに匹敵する大行革と言えば、「大化の改新」から天武朝へかけての大変革、戦国末期から江戸時代にかけて信長・秀吉・家康が成し遂げた国家改造、そして明治維新、昭和二十年敗戦直後の様々な改革、と、長い歴史の中でもこれぐらいしかない。しかし、これらの例と、後醍醐の「建武の新政」は大きな違いがある。これらの例はすべて大成功を収めたが、後醍醐の親政は大失敗に終わったのである。
一体、なぜそんなことになったのか?
行革を、それも徹底的にするには権力を集中しなければならない。なぜならば、行革は国の「サビ落とし」だが、その「サビ」は生きていて「既得権」というものにがっちりとしがみついているからである。
しかし、日本において行革が極めて困難な作業であるのは別に理由がある。
それは、日本人が行革を行なうのに最も大切な条件の一つを、まったく理解していないことである。
それは、行革の実行者にすべての権力を一極集中させることである。これからおいおい書いていくことになるが、人間は甘い汁を吸える体制つまり「既得権」というものを、決して自分からは手放そうとしない。絶対に。それは歴史の鉄則(?)である。
それを手放させるには、信長がやったように、あるいは「維新の志士」たちがやったように、相手を殺すぐらいの意志と、それを可能にする強い権力を持たねばダメなのだ。
日本では、そういう権力は、ちょうど戦国や明治のように、社会の矛盾がどうにもならなくなって改革が絶対に必要だと日本人のすべてが思った時か、天武朝か敗戦直後のように大戦争の後で反対派が一掃された時しか発生しない。
そして、これが最も肝心だが、日本人はそういう一極集中型権力者を好まない。いや、むしろ「悪」と見るということだ。
だから信長にせよ、明治の体制を作った大久保利通にせよ、その体制を大改革しようとした「平民宰相」原敬にせよ、権力が極限に達した時、すべて殺されている。
日本人は「何事も話し合いで決めよ」という和の体制の原則にはずれる人間を憎む。権力集中=悪だとも思い込んでいる。だからこれだけ行革をしなければ日本は「沈没」すると誰もが思い始めた昨今ですら、新聞に「総理への権力集中は危険だ」という論説が載る。もちろん、その論説委員(?)だけがおかしいのではなく、そういう姿勢を日本人は強く支持するのだが、私はそういう人々は歴史の法則がまったくわかっていないと思う。
戦国編で詳しく述べるが、信長がなぜ比叡山を焼き討ちしたかといえば、当時の比叡山が最大の”族議員”だったからだ。「族議員(=既得権者)」というのは、「皆殺し」にでもしない限り、行革などできないのである。
そういう覚悟と、それを担保する強大な権力が無ければ、行革は絶対に成功しない。
なぜ、こんなことを述べたかというと、日本人では、相当な知識人や歴史研究家の中でも、「後醍醐は一極集中型の権力を目指した、だから悪だ」という評価をしている人がいるからである。確かに日本史の常識としては、そうかもしれない。しかし、世界的な標準で見れば、むしろ、それは「悪」と見る日本人の考え方の方が以上なのだ。
そして、ここはまさに「軍隊を持つか、持たないか」という問題と同様で、日本人の方がその異常性を克服して、世界的な標準に合わせるべき問題なのである。
その観点から、まず後醍醐を「弁護」しておきたかった。
自分の信念あるいは政治理念を実現したい、そのために権力を自己に集中するということは、民主主義社会と言われる現代ですら、場合によっては必要なことなのである。ましてや、十四世紀において、権力者がそういう挙に出たところで、そのこと自体は批判の対象にはならない。
実際、倒幕(戦争)という過程を経て、強大な権力を得た後醍醐は、歴代の天皇すべてが手をつけられなかった、知行国制度を一部廃止したではないか。知行国というのも、もちろん、巨大な既得権だ。”
ただ惜しむらくは、後醍醐の政治理念は、その時代の人々が求めているものと大きくかけはなれていたからだ。だから、どんなに理想を追いかけてもみんな脱落して行ってしまったのだ。
つづく。
おはようございます^^連休で返事が遅くなりましたm(__)m
後醍醐天皇のやり方は、中国でうまく行っているから日本にも取り入れよう、だけど官僚制度は試験じゃなくて血筋で公家でっていう、天皇家や貴族にとって都合がいい部分が多すぎたっていうのもあるのですね。
実質活躍したのに冷遇された足利尊氏とか、なんでも押しつけられる楠木正成とか。
時代が変わっていることを為政者は気づかないとだめですよね。
その2から読ませて頂きました。
現代に例えた表現は、とてもわかりやすかったです^^
この時代って、敵味方が入り乱れて戦ってるので、すごくややこしいですよね。
後醍醐天皇も、やり方としては間違えてなかったのですね。
問題は政治理念ですか。
どこかの歴史番組で、後醍醐天皇の主張は、現代で言うなら「江戸時代の政治に戻りましょう」と言うようなものだ、と聞いたような…
それは無理な話ですよね~;;
そんな後醍醐天皇に振り回された楠木正成が、少し可哀そうに見えてきました。
次回も楽しみにしてます(*^-^)