楠木正成は怨霊となったのか? その9
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- 2019/09/20 16:52:52
叛旗を翻した足利尊氏・直義に対して後醍醐は新田義貞に足利尊氏追討を命じた。
建武2年。東海道から尊良親王と新田義貞が、東山道から洞院実世が、奥州から北畠顕家が尊氏討伐軍として鎌倉を目指したことで始まる建武の乱は、緒戦の手越河原の闘いで新田義貞が足利直義の軍を破る。
このとき尊氏は天皇に弓を引くことはできないと、髻を切って建長寺に籠もってしまったという。
そこで直義は高師直と謀って「足利一族の罪は出家しても許さん」というニセ綸旨を作って尊氏を説得したという。
尊氏が出陣してからの足利勢は新田義貞を蹴散らし、京へ入った。後醍醐は比叡山へと落ちた。しかし、尊氏は新田義貞と合流した北畠顕家の奥州軍の攻撃を受ける。比叡山から楠木正成、東山道から洞院実世が、奥州から追いついた北畠顕家が京都市中で尊氏に総攻撃をかけ、尊氏は丹波国へと撤退する。摂津で再起を図るがそこでも新田義貞に大敗して、赤松円心の言を入れて九州へと落ちていった。
そこで、楠木正成が「新田義貞を成敗して、足利尊氏と和睦しましょう」という提案をする。尊氏には後醍醐と争う理由がない。後醍醐が「武家政治を認めたら」ないのだ。だが、そこは後醍醐がもっとも譲れないところだった。
九州に落ち延びた尊氏は、赤松円心のアドバイスに従って「京の光厳上皇に死者を出して、京都回復の院宣」をもらい、南北朝の始まりとなる。
後醍醐が自分とは違う系統の持明院統をすべて根絶やしにしてしまっていればこんなことは起こらなかったのだが、後醍醐はどこまでも日本人として振る舞っていたのだ。
つづく。