Nicotto Town



楠木正成は怨霊となったのか? その10

後醍醐天皇は尊氏と和睦するチャンスがあった。

京都で尊氏を追い落とし、新田義貞が摂津で尊氏を散々に打ち破ったとき。
尊氏が西国から盛り返して京都へ迫ってきたとき。

「逆説の日本史7中世王権編」井沢元彦著によると。

”尊氏と後醍醐は公然と敵対関係に入ったということである。その尊氏が大軍をもって京を攻めたのに、後醍醐側の名将楠木正成の奮戦によって尊氏は大敗北を喫する。「時代の勝者」となるはずだった尊氏は、「負け犬」となって命からがら西国へ逃げて行った。
まさに大逆転勝利であり、後醍醐側はさらに尊氏の息の根を止めるため新田義貞を派遣する。義貞は、後醍醐側から尊氏側へ寝返った「裏切り者」赤松円心を播磨国白旗城に包囲する。
この時なのである。正成が後醍醐に「尊氏との和睦」を勧めたのは。しかも、正成はこの時もっと過激な条件をつけている。
それは「新田義貞など討ち果たしてしまった方がいい。そのうえで尊氏を呼び返して和睦すべきだ」というのである。”

後醍醐は一笑に付して取り上げなかった。軍事のセンスがまったくない、毛嫌いしている後醍醐には、足利尊氏と新田義貞とどちらが戦略眼を持っているかなどわからなかった。勝敗など時の運だと思っていたのかもしれない。

この時代、攻城戦がうまい武将はほとんどいない。楠木正成が千早城に籠もったときに大軍で囲みながらも逃げられたことでもわかる。

新田義貞は赤松円心が籠もった白旗城など放っておけばいいものの裏切り者として攻めて尊氏が兵を募る時間を与えてしまった。

”もともと尊氏には後醍醐に反抗するつもりはない。それなのになぜ敵対関係になったかといえば、後醍醐があくまで自己の「朱子学」というイデオロギーにこだわり武家政治を認めないからだ。
ここでもし尊氏と和睦し、後醍醐が「幕府を開いてよい。実際の政治はすべて武家に任せる」と言えば、すべて丸く収まったはずだ。そうなれば、尊氏は皇統のことなど一切干渉する気はないから(もともと武士は北条時代から天皇家の争いに干渉することを好まない)、後醍醐の「朕の血統が永遠に天皇家を継いでいくのだ」という熱望も叶えられたはずである。後醍醐が「幕府」の強大な力を背景に持明院統を弾圧すれば、持明院統の方で逆らう手段はないのだから。”

そして尊氏には戦に負けたという弱みがあった。和平交渉を有利に進められたはずだ。

後醍醐によって和睦の策を却下されたわずか4ヵ月後に、尊氏は九州・四国・中国で兵を募って大軍となった尊氏が攻め上ってきた。

”驚きあわてる後醍醐に、正成は「必勝の戦略」を言上した。
それは、いったん都を放棄し朝廷は比叡山に逃れる。そして大軍を都に入れた後、ゲリラ戦術で糧道を断つ、というものだった。京は消費都市であっても生産都市ではない。大軍であればあるほど大量に食糧を必要とするから飢えるのも早い。この戦略t通り戦っていたら、とりあえず勝利は朝廷側のものだったろう。
しかし、この名案も却下された。
天皇が都を出るなど体面上許されない、というくだらない理由である。”

そして、大軍を迎え撃つべく正成に尊氏追討を命じたのだ。

歴史をみれば、源頼朝も織田信長も徳川家康も敗走して力を蓄えて盛り返している。生きていることが重要であって恥も外聞もなかったのだ。

後醍醐はつまらないメンツにこだわって勝つことすら放棄してしまったのだ。

つづく。





Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.