楠木正成は怨霊となったのか? その11
- カテゴリ:勉強
- 2019/09/26 16:48:58
後醍醐は自分が正しいのだから、敵がどんなに強大であっても、勝つのは自分だと考えていたに違いない。あるいは敵方が朝廷に弓を引くことを畏れて戦わずして逃げると確信していたか。神風が吹いて尊氏たちを吹き飛ばしてしまうか。
現代の日本人もそうだけども、自分たちを正義として都合よく考える人たちは多いが、どうして困難な事態になったのかを考えられる人は少ない。
全国の武士たちが後醍醐から離れて尊氏に合流するのは、建武の新政がひどいものであったからなのだが、後醍醐だけは気づかない。
湊川の戦いからわずか2年足らず後に、石津の戦いで討ち死にする南朝の大忠臣、北畠顕家は戦死のわずか7日前に、後醍醐へ長文の奉状を送っている。
1減税をし、国家財政が破綻に陥らないようにつとめるべきだ。
2身分の無い者にみだりに官職を与えるべきではない。
3代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園はみだりに取り上げたり、武士に与えるべきではない。
4贅沢な行幸や宴飲はやめるべきだ。
5政治が朝令暮改で一貫しない。これでは民が心服しない。
6語政道の評判を落とすような連中は一切遠ざけるべきだ。
との諫めの言葉で、有力貴族とはいえ、かなり厳しい言葉が並んでいる。
「贅沢三昧で国家財政を破綻させ、ろくでもない連中を近づけた、朝令暮改の政治」であると断罪し、「実力があっても身分がない者は登用すべきではない」と貴族たちを重用することを求めている。
武士たちは自分たちが評価されないことに怒り、貴族たちは自分たちより身分が低い者が重用されることに怒っていた。これでは政治は立ちゆかない。
後醍醐はそんな周囲の声にはまったく気づかない人だった。自分が一番偉い、それ以外は認めないという我欲の天皇で、足利尊氏が西から50万の大軍で攻め上がってきたときも、新田義貞、楠木正成ら5万余りで迎え撃たせた。楠木正成は他家をいれず楠木勢だけの700余だったという。
湊川では足利勢の奇襲に新田、脇屋ら新田勢は総崩れとなり、退路を断たれる恐れから東へと引いた。結果、楠木勢700は敵中に孤立することとなってしまった。
いったんは足利直義の軍を蹴散らした楠木勢だったが、数に勝る足利勢が兵を投入し、時間にわたる合戦の末、湊川で自害することになる。
太平記では
”上座の正成は弟の正季に「人間は最期の一念によって様々な世界に転生するという、おまえはどこへ行きたいか」と尋ねたところ、正季はからからと笑って「七回までもこの人間界に生まれ朝敵を滅ぼしたいと思う」と答えた。正成もこれを聞いて嬉しそうに「それは罪業深き悪念だが、わしもそう思う。いざ、二人で生まれ変わって我等の望みを遂げようぞ」と約束を交わし、兄弟で刺し違えてその生を終えた。”
そののち太平記巻十六では
”「では、あなたはどのような姿なのか」と尋ねた。正成は「私も最期の悪念によって今は千の頭を持つ鬼となり七つの頭を持つ牛に乗っている。信じられないなら、その姿を見せよう」と松明を十四、五も同時にばっと振り上げた。すると、一むらの雲の中に十二の鬼が先帝の御輿をかついでいるではないか。そして、その後に、湊川の合戦で討ち死にした正成が、その時と同じ鎧を着て七つ頭の牛に乗っていた。”
とあり、大森彦七の物語へと繋がっていく。
つづく。
こんにちは^^
正成は太平記の言葉から孫子や漢書の兵法を学んでいたのでしょう。まさに「兵は詭道なり」の戦いで幕府軍も尊氏もきりきり舞いさせられてますからね。
どんなに戦が強くても、軍全体の把握をしてどう動かすべきか見えていなければ、ただ強い武将でおわってしまいます。新田義貞は鎌倉を攻め落とした功はありますが、尊氏には何回も敗れ、最期は藤島城へわずかな手勢を率いて搦め手から攻め上がり、弓隊に見つかって水田に追い落とされて格好の的になって自害と太平記にも「犬死」と言われているくらいですからね。
北畠顕家は20歳に数えでくらいなので今なら10代ですね。
北方謙三の「破軍の星」では無敵の軍隊として描かれていますが、最期は疲れ果ててと軍略では正成には遠く及ばなかったようです。
正成、義貞、顕家とうまく連携できていればよかったのでしょうけれど、顕家は公家で武家を見下していたし、義貞は指揮官としてはダメで、正成がいなくなったのが大きかったでしょうね。
というか後醍醐がダメだったからですね。
その9から読ませて頂きました^^
天皇に弓引くことは出来ない!と引き篭もってしまう尊氏。
お兄ちゃんを叱咤激励して、騙してまで説得したり、弟の直義も大変ですね。
本当にこの兄弟は、二人三脚だからこそ室町幕府が誕生したのだと思います。
戦に強い尊氏でしたが、楠木正成には敗れてたのは意外でした。
確かに、正成はどんな手を使ってでも勝ちそうなイメージです。
正成は情勢判断も見事。
勝つためには、味方だった新田義貞を
「討ち果たしてしまった方がいい」とまで…
冷徹な判断も下せる人だったのですね。
千早城籠城戦も、当時としては思いもよらない戦法ばかりで、
戦の天才である正成に、後醍醐天皇が全て任せていれば、歴史は違ってきてたのかもしれませんね。
北畠顕家は、そんな奉状を送っていたのですか。
確か、顕家ってまだ20歳前後の若者ではなかったでしたっけ?
戦死してしまったのが惜しい、将来有望な武将でしたね。
「七生報国」の由来となった話は、正成ではなく、弟の正季が言ったと聞きましたが、二人の会話から生まれた言葉だったのですね。
それが、まさか鬼になってしまうのですかΣ(・・)!
次回からも、またじっくり楽しみに読ませて頂きます♪