楠木正成は怨霊となったのか? その12
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- 2019/09/27 16:19:16
大森彦七は清和源氏の一流・大和源氏源頼親の9世孫、宇野親治の5世孫を称していた伊予国の武士で足利尊氏に従って南朝方と戦っていた。
血筋からいくと足利尊氏とは同じ清和源氏で源満仲の次男が頼親、三男が河内源氏の祖となる頼信だったが、室町幕府を開く足利尊氏をは身分では天と地との差がついていた。
「軍神の血脈」高田崇史著によると。
”『大森家系図写、十代彦七盛長の条』にいわく、
『正成敗れ終はり、民家に入りて、まさに切腹せんとしたる時、盛長後を追ひ、死をとどめて再挙を勧誘す。正成よしとせず、つひに切腹し終はる。盛長介錯し、首級を将軍に献じたり』”
と大森彦七が切腹しようとする楠木勢の中へ飛び込み、再挙を促したこと。正成はよしとせず一族もろともに自害したことになっている。
ここで疑問なのは、この民家での楠木一族の切腹で、楠木正成はもちろん、弟の正季、橋本八郎正員、宇佐美正安、神宮寺正房、和田正遠、菊地七郎武吉ら、そうそうたる大将首が転がっていたにもかかわらず、彦七が討ったのは正成の首だけだった。
しかも、楠木正成は身分が低すぎて、大森彦七はおろか、足利直義ですら顔を知らなかったという。間違いなく正成の首だと言ったのは尊氏だけだった。
”正成の首級が、今日の六条河原に梟された時の落首なんだけど、
うたがひは人によりてぞ残りける
まさしげなるは楠が首
とね。この『まさしげ』というのは『本物らしい』という意味で、つまりこの歌は、ここに梟されている正成の首は、果して本物なのだろうかーというわけだ。また『何者かしたりけむ。六条河原に高札を立て、一首の歌をぞ書きたりける。(中略)この落書を歌に作りて歌ひ、あるいは語り伝へて笑ひけり』などと書いている書物もあるほどだ。つまり、湊川の戦いの首実検で最大のポイントとなるのは、当時の足利軍で正成本人の顔を知っていたー判定できたのが、足利尊氏ただ一人だったということだ。弟の直義でさえ、生前の正成を直接見てはいない。”
もし、楠木正成と足利尊氏が組んで正成が死んでしまったことにしたとしたら。
ゲリラ戦が得意の正成が湊川で正面戦を挑んだこと、尊氏が正成の首を正成の妻の久子に届けたこと、楠木正成の子の正行が四條畷で正面戦を挑んで自害していることなども、生きるための策だったとつじつまがあう。
正成の首は大森彦七の首で、正成は入れ替わって伊予国の住人となった。だからこそ、太平記で唐突に大森彦七の亡霊の話が出てくるのだ。あれは怨霊慰撫としか説明しようがない。
なにより、伊予国内子町に「掬水寺」という曹洞宗の寺がある。寺の伝承によると正成の子孫の正敏が河内から落ちてきて河内氏を名乗って寺を開いたという。菊水の定紋が刻まれた鬼瓦一対があって、楠木一族の寺として有名である。
これも正成が大森彦七と入れ替わっていたのなら準備が整ったから一族で移ってきたと考えられるのだ。
つづく。