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楠木正成は怨霊となったのか? その14

楠木正成が生き延びたとしか思えない状況証拠として湊川神社と四條畷神社がある。湊川神社は楠木正成を、四條畷神社は楠木正行を祭神とした神社で、どちらも旧社格は別格官幣社の扱いとなっている。

別格官幣社は国家に功績があった忠臣や国家のために亡くなった武将や兵士を祀るための神社の格付けで、靖国神社はこの扱いとなる。水戸光圀を祀った常磐神社や上杉謙信を祀った上杉神社のように藩祖を祀った神社、日光東照宮もこの中に入る。扱いとしては官幣小社ぐらいで、東京都府中市の大國魂神社と同格といったところ。

そして、別格官幣社では祭神を怨霊として扱っていない。

日光東照宮と同じ臣下が祭神となった北野天満宮と太宰府天満宮は菅原道真を雷神として祀っているため、別格官幣社ではなく官幣中社とされた。これは菅原道真が明らかに怨霊とされたことで説明できる。

なによりも、湊川神社の創建は1872年(明治5年)、四條畷神社は1890年(明治23年)で、彼らが戦い敗れて自害した当時は誰も怨霊として扱わなかった証拠となる。

もちろん、身分が低かったこともあるが、彼らが本当に祟るのであれば、きちんと祀られていたはず。松尾芭蕉が「むざんやな甲の下のきりぎりす」は老将斎藤実盛を懇ろに祀った多太神社で詠んだ句で、幼い義仲を木曽へ逃がした斎藤実盛が白髪を染めて平家方として立ちはだかり、義仲勢に討ち取られたときに樋口次郎が漏らした言葉からで、そういうことを大切にしてきた歴史があったことを思えば、楠木正成は自害していないと言えるのではないか。

ちなみに、伊予国で行なわれたという猿楽はもちろん悪党の楠木正成が持ち込んだものなのだろうね。

おしまい。

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2019/10/28 18:28
>ゆりかさん
こんばんは^^
旧社格は明治時代に「延喜式」に倣って作られた「近代社格制度」のことで、第二次世界大戦後に廃止されたのですが、わかりやすい格付なのでよく使われています。

松尾芭蕉は、当時の日本では珍しい「芭蕉」の名前を使っていて、芭の中に巴の文字があるからではと言われています。木曽義仲の墓がある義仲寺は巴御前が義仲の菩提を弔ったという伝説があって、巴塚という巴御前の墓とされるところがあるから、近くにいたかったのかもしれませんね。

斎藤実盛の首実検で、白髪を染めた黒の染料を流して実盛とわかったときに、義仲は人目も憚らずに号泣し、樋口次郎は「むざんやな」と漏らしたそうです。
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2019/10/26 07:03
おはようございます、kiriさん。

完結、お疲れ様でした^^
神社にはそんな格付けがあったのですね。
そういう視点からも、楠木正成生存を考察できるって凄いですね。
私には思いもよらなかったです。神社の格付けすら知りませんでした~^^;

松尾芭蕉は、遺言で木曽義仲の隣に墓を建てさせるくらい義仲ファン?だったと思うのですが、斎藤実盛についても、そんな句を残してたのですね。
樋口次郎は、どんな言葉を漏らしていたのでしょう。気になります。

今回もとても勉強させて頂き、ありがとうございました(*^^*)




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