将門って本当はどんな人だったの? その2
- カテゴリ:勉強
- 2019/10/29 15:41:18
平将門の乱の一部始終を書いた軍記物が「将門記」なのだが、現存するのは「真福寺本」と「楊守敬旧蔵本」の2つの写本で、ともに冒頭部分が失われている。だから、子細はまったくわからないが、承平5年2月、野本で常陸国の前大掾である源護の息子扶らが陣を張って平将門を待ち伏せした戦いから始まる。
追い風を受けた将門一行は扶らを打ち破り、勢いに乗って、野本、石田、大串、取木などの源一族の居館をことごとく焼き払っている。石田の居館には平国香がおり、将門が攻め立てたことで、国香は自害している。
将門が伯父の国香、良兼らと父良将が遺した領地を巡って争っていたことは事実で、幸田露伴「平将門」でも
”将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつた……此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。”
と書かれている。
「QED 怨霊将門」高田崇史著によると。
”既にどこの誰に訴えようにも、どうにもならない状況に陥ってしまっていたために、将門は仕方なく自力で荒れ地の開拓を始めた。自分の土地を手に入れるためには、公の国司や、荘園の管理者たちも手を出さないような『番外地』を開拓するしかなかったんだ。その地は、下総国豊田郡鎌輪と、猿島郡石井。現在の茨城県結城郡千代川町鎌庭(*現在の下妻市鎌庭。千代川村の間違いか)と、岩井市(*現在の坂東市)の辺りだった。当時は鬼怒川と小貝川に挟まれた、葦の生い茂る沼沢地だったらしい。”
鎌輪という地名から鉄あるいは砂鉄が採れたのではないかと思われる。将門が一気に力をつけて勢力を広げたのは、製鉄技術を持っていたからで、鉄製の農具や武器を作って領地を広げた。強い者には庇護を求めて大勢の人たちが集まった。番外地に集まるのは朝廷に虐げられた人たち、鬼や河童たちだったのではないか。
一方、将門の従兄で国香の息子の貞盛は都で左馬寮の允の職に就いていたが、国香死去の報を受けて帰国する。
鎌倉時代初期に源顕兼が作成した説話集「古事談」には
”仁和寺の式部卿(宇多天皇皇子敦実親王)の門で郎党を五、六人連れた将門に遭遇した貞盛が、将門に対して「今日は郎党を連れていない。もっともくやしいことだ。郎党がいれば、今日殺してしまうのに。この将門は天下に大事を引き起こす者である」といったという”
そんな話があるが、後世の創作と思われる。
貞盛は居館に着くと父の遺骸を探し出し、母を助け、兄弟や一族の者たちを呼び集めて一年間の服忌期間をもった。
将門は本来の敵ではなく、源護との婚姻関係が原因となって関係が悪化しているだけと認識しいていた。
貞盛は都へ戻って昇進を望んでいたことから、将門と和解することとなった。
つづく。
こんにちは。
平将門は江戸の守護神として神田明神に祀られていたり、首塚の祟りがまことしやかに伝えられていたり、帝都物語では怨霊として出てきたりと死後の話が大きいですが、生前のことは承平天慶の乱として東の平将門、西の藤原純友が乱を起こして鎮圧されたと教科書で習うくらいですね。
将門の話を進めていくと正しいことをやっているはずなのに、親戚から攻められるという理不尽さが山のように出てきます。
平将門、名前は有名ですけど具体的に何をした人なのか、あまりよく知らなくて^^;
少し前に、歴史番組で取り上げられてて、少しだけわかりました。
kiriさんに詳しく解説して貰ったら、さらにわかりそうですね!
続きも楽しみにしてます♪
前回の楠木正成のコメントで、樋口次郎の言葉を教えて頂き、ありがとうございます(*^^*)