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将門って本当はどんな人だったの? その3

平将門の乱の始まりは、伯父国香が将門が受け継ぐべき良将の遺領を自分のものとして返さなかったことでの一族の争いではなく、源扶らの将門襲撃にある。将門記の冒頭部分が残っていないため推測でしかないが、将門が妻とした平良兼の娘がなんらかの原因となったと考えられている。
野本の戦いで源扶、源隆、源繁は将門に討ち取られたことで、対将門戦は源護のメンツがかかる戦いとなってしまったのだろう。常陸国前大掾(国府の三等官)だった源護は、平国香、良兼、良正に娘を嫁がせて姻戚関係を結んでいて、息子たちの敵を討ってくれるように頼んだと思われる。

将門の叔父良正は常陸国中の姻戚に声をかけて兵を集め、承平5年10月21日に新治郡川曲村でぶつかり、運よく将門が勝利したと書かれている。敗れた良正は上総国にいる兄良兼に加勢を頼んだ。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”良正は将門に敗れたあとも、なお敵対心を抱き続け、兵力が不足していることを上総国もいる兄の良兼に伝えて助力を求めた。その書状には「お力添えを賜り、将門の乱悪を鎮めたいと願っています。そうなれば常陸国内の騒ぎは自然におさまり、人びとの動揺もなくなるでしょう」とあった。これに対して、良兼は、「昔の悪王は父を殺すような罪を犯した。今は、甥の将門の力を強めるような過ちに耐えていられるだろうか。良正がいうように、将門の振舞をみすごすわけにはいかない。なぜなら、姻戚の源護が将門の暴悪を嘆き悲しんでいるからだ。自分は姻婭の長となっている。助力する気持ちがないはずがないではないか。早く軍備などを整えてひそかに待ちなさい」と答えて承諾した。”

さらに将門と良正が戦ったのちに、服忌期間があけて将門と和睦した貞盛に対して将門と戦うように説得する。

”良兼が水守営所に到着すると、良正はまず貞盛の将門との和睦について疑惑をのべた。ついで貞盛が挨拶に出ると、良兼は「聞くところでは、わが身内(貞盛)と将門とは親密な仲であるという。それは、貞盛が兵ではないということだ。つまり、兵というものは、その名を第一とするものだ。将門にかなりの財物を奪い取らせ、父を始め何人かの親類を殺害させて、どうして、その敵に媚びてよいはずがあろうか。今こそ、われらとともに力をあわせるべきである。まさに、将門との勝敗の決着をつけようとしているのだぞ」とのべた。貞盛は、兵としての道を説く良兼の言葉の巧みさによって、本意ではなかったが、将門との約束を破り、良兼の軍に同行した。”

平良兼、良正、貞盛は1000人ほどの軍で下野国境に布陣して、約100人ほどの将門軍を迎え撃った。このとき、大軍の良兼軍へ歩兵の弓で先手を取り圧倒して80騎余りを討ち取っている。良兼はなすすべもなく下野国府へと逃げ込んだ。圧倒的な数の差を覆したのは、将門の強さ、戦上手もあるが、製鉄技術による武器の優秀さもあったと考えられる。

将門は熟考して「将門にとって良兼は永遠の宿敵ではない。今、敵対してはいるが、良兼は伯父であり、疎遠ではなく、家系をみれば義父である。『夫婦は、親しくて隙間のない瓦に等しく、親戚は、疎くて隙間があるが根はつながる葦にたとえられる』。もし、伯父の殺害におよべば、自分への非難が遠近の地域におkぉるであろう」として、国庁の西側の陣を開いて良兼を逃がした。それに乗じて1000人余りの兵が皆逃げ出したという。

良兼は源護との姻戚の立場から良正に味方しているが、将門にとっては伯父であり、義父でもある。関係はかなり近いはずだが、なぜか将門は一族から袋だたきのように攻められているのだ。

つづく。










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