将門って本当はどんな人だったの? その4
- カテゴリ:勉強
- 2019/10/31 15:54:36
野本の合戦から下野国境の戦いまでの間に、源護は朝廷に平将門と平真樹らの告発状を出していた。それにより、平将門、平真樹らは都に召喚された。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”将門は、すぐに朝廷に参上して、野本の合戦に始まる一族の争いのいきさつを詳しく奏上した。天皇の裁定により、検非違使で訊問を受けることになった。将門は、裁判のような理詰めの実務に耐えることができなかったが、神仏の加護があり、理にかなった弁論を行なった。さらに、天皇の同情や廷臣たちの恩顧が加わったため、犯した罪は軽いものとされ、それに準じて罰も重くなかった。この判決により、将門はかえって面目を施し、都で武将としての名を高めることになった。当時の検非違使別当(長官)が、将門が少年の頃仕えた藤原忠平の長子実頼であったことも、将門に幸いしたように思われる。”
将門が都に滞在している間に、天皇の元服があり、八虐を犯した罪(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)も減刑された。将門はこの恩詔により罪を許され、都から居館へ帰っている。
将門が下総国へ戻って月日も経たないうちに、伯父の良兼が将門への報復のために軍を動かした。
「QED 怨霊将門」高田崇史著によると。
”承平七年(九三七)八月には、下総常陸の国境を流れる小貝川(子飼川)で、良兼たちの攻撃を受けて負けてしまう。
この時良兼は、将門の父の良将と祖父の高望王の像を陣頭に持ち出して来て『箭が放せるなら放してみよ。鉾先が向けられるなら向けてみよ!』とのたまって突っ込んできたらしい。これにはさすがの将門も、陣を引いて逃げるしかなかったようだね。いわゆる『親の位牌で頭を殴る』という戦法だ。”
この戦で敗れた将門は、8月17日に軍備を増して、下大方郷堀越の渡しに布陣して、良兼を迎え撃ったが、急に脚気の症状が出て戦うことができず、幸島郡葦津の江に身を隠した。良兼は上総国へ引き上げるときに、将門の妻の船を襲って物資とともに将門の妻(良兼の娘)を奪っていった。
失われた冒頭部分は将門の妻(良兼の娘)に関係するトラブルと思われるが、妻は将門を思う余りに嘆いてばかりいたため、弟たちがはかりごとをして妻をひそかに将門のもとへ送り返している。
つづく。
こんばんは^^
将門の妻については、将門記の冒頭部分が欠損しているからまったくわからなくて想像するしかないのですよね。解釈も近年は真逆に変わってきたところもあって、かなり難しいところもあります。
将門は戦いで古代中国の武将の名前をよく使っていることから、大陸の書物を読んでいたのかもしれませんね。
鉄の武器が圧倒的に強いというのは、この時期に製鉄技術を持った民が朝廷に重用されたことでもわかりますね。
その3から読ませて頂きました。
平将門の乱って、親戚同士のいざこざから始まってたのですね。
え?1000人VS100人で、劣勢の将門のほうが勝ったのですか(◎o◎)!
製鉄技術って凄かったんですね~。平良兼らのほうは、どんな武器だったんだろう。
『親の位牌で頭を殴る』戦法もすごいですね!
親戚同士なのもあって、確かにこれはキツイかも^^;
奪われた妻のエピソードも興味深いです。将門の妻であり、良兼の娘でもあるわけですね。複雑な心境だったでしょう。
ここらへんの人間模様を、続きで詳しく語って頂けるのでしょうか。気になります。
とても面白かったです!続きも楽しみにしてますね(^-^♪