自作10月 『前396年、オリンピアにて』2/2
- カテゴリ:自作小説
- 2019/10/31 23:52:26
しかしてつい最近スパルタは、戦場でエーリスを完膚なきまでに打ち破った。圧倒的に立場が強くなっている今、王はエーリスが主催する大祭など取るに足らぬもの、女性ですら栄誉を得られるものだと、大いに貶めたいらしい。
間男というのは、稀代の美丈夫、アルキビアデスのことである。あろうことかこのアテナイ人は、スパルタに亡命していた折、先王の王妃をかどわかして不義の子を産ませた。王妃が彼になびいたのは、かつてオリンピアにてまさしくこの競技で、優勝の栄誉を勝ち取っていたからであった。
――有能な御者、立派な馬、性能のよい戦車。戦車競技は、この三つを揃えれば勝利できる。しかもオリンピアでは、一人で何台も出走させられる。財力が許すかぎり、いくらでも。ゆえにアルキビアデスめは、七台もの戦車を出した。あの間男は方々の女をたらしこんで、その資金を得たのだ。
王は実兄である先王を苦しめたアルキビアデスの英雄性を否定するべく、かように力説して、婦人を説得したのであった。
――妹よ、間男の栄誉を穢してくれ。あいつが勝ったのは、他の競技同様、世界で最も勇壮な男だったからだと思われている。そうではないのだと、世に知らしめてくれ。そなたにもう五台、戦車を与えよう。
アルキビアデスが残した禍根は、王妹たる婦人にとっても赦しがたいものであった。間男が成した罪のせいで、先王の子だと主張する不義の子と二番目の兄との間で、本来起こるはずのない継承争いが起こったからである。
ゆえに婦人は、自身が兄王の復讐の道具となることに、素直に甘んじた。なれども、自身が得る栄誉に想いを馳せてきらきらと、大いに目を輝かせたのであった。
――兄上、戦車は一台で十分です。わたくしは、最強の御者を知っておりますゆえ。
――なんだと?
――たとえお金の力で得られた名声と言われても、その御者が駆って下されば、わたくしは心の底から喜んで、胸を張って誇ることでしょう。心配いりません。その御者が駆れば、わたくしは必ずや、ゼウスの聖域にて輝かしい栄誉を得られます。絶対に。
戦車の台数も誰を御者とするのかも、婦人は頑として譲らなかった。
それで必ず勝てると、心の底から信じ切っていた。そして今日この日、婦人は大祭が行われる聖域のすぐ前までしっかりついてきて、御者に小さなお守りを渡してきたのであった。
――ごめんなさいね。由緒正しい生まれのあなたに、奴隷の仕事を押し付けてしまって。でもわたくし、あなた以外の誰にも、わたくしの戦車を任せたくなかったの。どうか一緒にこれを乗せてください。
それは婦人自身を模したと思われる、素焼きの小さな人形であった。背中の部分に、「我らは勝利を得る」、という願掛けの文字が刻まれている。御者はその人形を一瞬力を込めて握りしめ、大事に懐に入れて、馬場に入った。
絶対に負けられない。あの金剛石のような瞳の輝きを、曇らせるわけにはいかない。
勝利を信じて疑わない婦人の貌を見て、御者は誓ったのだった。
王のためではなく。自分の首のためでもなく。彼女のために必ずや、勝利を勝ち取ると。
「俺が生み出してやる。女神を、今ここで」
勝てばきっと、婦人は全世界の注目を集めるだろう。ゼウスの神域に像が建ち、数多の人々が彼女を称え、崇めるだろう。彼女の名は後世に残る。
何十年、何百年と。いや、おそらく千年以上。
決して、忘れ去られることはない――
一羽残っていた機械仕掛けの鳥が下がり、十二周目に入ったことを告げた。
最後の周回だ。
コーナーに来た瞬間、御者は片足に力を込め、馬車の片側を思い切り沈み込ませた。しかし左側の手綱はいつもよりゆるめに締め、わざと円周を広げて回った。右手に追いついてきた二番手が、こちらの戦車に接触するように仕向けたのである。二番手の戦車は怯んで、がくりと速度を落とした。
「走れ! 走れ! 風よ吹け! 俺たちの背中を押せ!」
さあ、あとは直線を一気に駆け抜けるだけだ。
御者は激しく手綱を叩いた。鞭のごとくに、上下に何度も、打ち叩いた。
御者は馬たちの名前を次々と呼んで励ました。
朝から晩まで、彼らを訓練してきた。馬たちの信頼を得ようと一所懸命世話をして、一緒に寝たり、横について走ったりもした。もはやこの馬たちは、自分の家族。そう言えるまでに、気心が知れた仲になっている。
「もう一息だ! 俺たちが勝つ!」
ゴールがみるみる近づく。左手に後続が迫る気配を感じて、御者は急いで左に戦車を寄せた。後ろに迫ってくる馬たちが戦車を突いてくる。ゴールまで、追い抜きを阻止できるだろうか。
「走れえっ!」
3。
2。
1。
「うおおおおおおっ!」
ゴールを駆け抜けた瞬間、王の雄たけびが轟いた。
御者はホッとして手綱を引いた。馬たちが足をゆるゆる動かしはじめ、ゆっくりと止まる。観覧席から、赤や白や黄色、色とりどりの花びらが舞い落ちている。エーリスの女祭司が観客に配った花かごから、大量の花びらが馬場に投げられたのだ。
「やった……! ああ、やったぞ……!」
御者は手に落ちてきた花びらを握りしめ、天を仰いだ。
女祭司のそばに侍るゼウスの祭司が、勝者の名を宣言した。その声は朗々と高らかで、はるけき天の高み、オリュンポスへと昇っていったのだった。
「勝者は、スパルタのキュニスカ! アルキダモスの娘、キュニスカ! 神慮めでたく、雷放つゼウスは、キュニスカを勝者に定められた! キュニスカに、栄光あれ!」
歓呼の声といまだ降り注ぐ花びらの雨を背に受けながら、御者がオリンピアの聖域を出るやいなや。
「あなた……!」
輝く太陽のごとき笑顔を浮かべた婦人が、彼のもとへと駆け寄ってきた。
「勝ったのですね?」
御者はにっこりしながら、懐に入れていた人形を取り出した。
「君が一緒に居てくれたから、勝てた。我が妻よ。さっそく銅像を作る手配をしよう」
「兄上は、大喜びでしょうね」
「うん。間男め、ざまあみろって泣き笑いしてた。俺たちにとっても最高に喜ばしい結果だ。君が、雷放つゼウスの隣に並ぶなんて。君の名は永遠に残る」
俺の名前は残らないだろうがと、御者が苦笑めいた笑顔を返すと。婦人は、彼の両手を骨ばった手でそっと優しく包み込んだ。
「あなた、本当にありがとう。私は大勢の人に称えられるのでしょうね。でもあなたも、この勝利に負けないぐらい、素晴らしい栄誉を得ましたよ」
「うん?」
「ついさっきスパルタから早馬が来たの。孫が生まれたっていう手紙をもらったわ。男の子だそうよ。おめでとう、御祖父ちゃん」
御者は高らかに歓喜の声をあげた。
我が子だけでなく、さらなる子孫に恵まれる。子孫繁栄こそは、生きとし生けるものにとって最大にして最高の栄誉であろう。
男子である孫は、御者の名を受け継ぐ。その名は、さらなる次代へと継がれていくに違いない。
何十年、何百年と。いや、おそらく千年以上。
たぶん、永遠に――
紀元前396年、オリンピアの大祭にて戦車競技の勝者となったキュニスカは、大小二つの青銅像をゼウス神殿に奉納した。
そこには以下のような碑文が刻まれた。
『我が父、我が兄弟はスパルタの王なり
駿馬のひく戦車によって勝利せしキュニスカが この像を建てるものなり
我は宣言する 我は全世界において
この栄冠を得た唯一人の女なり
我が御者が我が戦車を駆りて この偉業は成された』
――了――
~ようやく、イラストが仕上がりましたよ。
オンリンピュアというのは、奉納相撲とか御柱祭みたいな感覚だったんだろうなあと思います。戦車戦はもりあがったでしょう。そういえば少し前に『ベンハー』がリメイクされていたらしいですね。
ある時期、女性版オリンピックがあったと聞いてます
馬場を何周かする間に語られる思い出や経緯。
どろんこレースの騒々しさと熱い闘争心。
勝利の瞬間の大音響。
読んで音に包まれる楽しいお話でした^^
いつもありがとうございます♪
岩多きエーゲ、とか古代ギリシアの枕詞いいよねー。こういう素養がみうみ氏の骨太ファンタジーをうむのだな。
女の人も戦車に乗れたら、どれだけ良かったかですね。