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将門って本当はどんな人だったの? その5

上総介平良兼に鎌輪の居館を焼き討ちされ、妻を連れ去られたことで、将門は良兼を強く怨むようになる。ついに宿世の敵となった。

良兼が常陸国の姻戚を訪ねてきたことを聞いて、承平7年9月19日、1800余りの兵を率いて常陸国真壁郡へ到着すると、良兼の居館である服織の宿から良兼方の伴類の家宅で全て焼き払った。将門は良兼を探したが見つからず、彼らが筑波山へ身を隠したと聞いて、弓袋山付近で睨み合った。結局、初秋を迎えて両軍は戦わずに引くことになる。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”承平七年十一月五日、介良兼、掾源護、掾平貞盛、公雅、公連、秦清文ら、常陸国の敵を将門に追捕させる官符が、武蔵(現、埼玉県と東京都・神奈川県の一部)・上総(現、千葉県)、常陸・下野(現、栃木県)国にくだされると、将門はおおいに喜び、気力を高めた。しかし、諸国の国司らは官符を手にしながら実行せず、良兼は、なおも怒り、憎んで、隙をうかがって将門を討とうとした。”

良兼は、将門の駈使の丈部小春丸が姻戚のいる常陸国石田庄辺りに通っていることを聞いて味方に引き入れた。

「QED 怨霊将門」高田崇史著によると。

”丈部小春丸の手引きによって、将門は新たに本拠を構えた石井ー下総国猿島郡あの営所を夜襲されてしまった。この丈部小春丸なんだけど、彼は元々、将門の駈使ー雑用などに使われた走り使いだった。しかし決して奴隷という身分ではなくて、ごく普通の農民、あるいは公民だった。他の領主の勢力圏に通うような行動の自由も持っていたし、経済的にも一応独立した庶民だった。なので良兼は、この小春丸を召し取って、その手引きによって将門を討つことを彼に持ちかけた。その報酬は『乗馬の郎党となさん』、つまり馬を与えて、待遇の良い郎党に取り立てるというわけだ。小春丸はこれを承知して、良兼方の田夫ー農民を連れ帰り、将門の陣営を探らせた。一方良兼は、精兵八十余騎を率いて石井営所を夜襲する。しかし、それをいち早く知った将門の郎党が、急いで石井に駆けつけてそれを告げた。この時将門の館にいた兵は十人に満たなかったために、女子供は泣き騒いだが、将門はこれを鎮めると、一気に攻勢に出た。
『将門は眼を張り歯を噛んで、進みて以て撃ち合う。時に件の敵など、盾を棄てて雲の如くに逃げ散る。将門は馬に罹って、風の如くに追い攻めぬ』
と『将門記』に書かれるほどに、凄まじい戦いぶりだったようだ。その結果、敵兵四十余人を討ち取ったという。そして一方小春丸は、この翌年正月三日に裏切りが露見して殺されてしまう。”

戦いがあったとされる法城寺辺りは、発掘調査によって1992年に結城市が結城廃寺が法城寺と発表している。

つづく。





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