将門って本当はどんな人だったの? その7
- カテゴリ:勉強
- 2019/11/06 19:32:03
都へ向かう平貞盛を追った平将門が信濃で戦っている頃、武蔵国では国司と郡司の紛争が起こっていた。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”承平八年(九三八)二月中に、武蔵権守興世王・武蔵介源経基と足立郡司で判官代の武蔵武芝とは、互いに武蔵国の政治をめぐって争っていた。聞くところによると、国司は、もっぱら、道理に背く政治を行なっており、郡司は、正しい道理に拠っていたという。たとえば、郡司武芝は、年来、公務に忠実に励んでおり、これを郡司の誉れと褒める人がいても、批判する者はいなかった。もともと、武芝の、民を慈しみ、育てていく方策が広く行きわたっており、郡司としての名声が武蔵国(現、埼玉県と東京都・神奈川県の一部)内に聞こえていた。これまで、代々の国司は、郡中の租税の不足を督促することがなく、ときどき納期に遅れることがあっても、それを咎め立てることもなかった。
ここに登場した興世王は、王族であるが系譜は不明である。また、権守とは、国司の長官である守の代行・補佐を行う官職である。源経基は、清和天皇第六皇子である貞純親王の長子で、天徳五年(九六一)に源姓を賜った。武蔵氏は、武蔵国造の後裔で、初めは丈部氏を称したが、神護景雲元年(七六七)に武蔵宿禰の姓を与えられてから、武蔵氏を名乗ったという。足立郡司となり、武蔵国一宮である氷川神社(埼玉県さいたま市)を管掌して、有力な土豪として近隣に勢威を振るったといわれる。判官代とは、田などを管理する事務を行う国庁の官人である。ここには、武蔵武芝が、名郡司としてすぐれた政治を行なっていたありさまが書かれている。なお、足立郡については、武蔵国の東部とあるだけで、現在のところ注釈書にも説明がない。そのため、比定地は不明であるが、埼玉県の旧大宮市(現、さいたま市)を中心とする地域と推定される。
ところが、権守興世王は、正式に任命された国守が武蔵国に至る前に、強引に足立郡内に入ろうとしたという。武芝が前例を調べてみると、武蔵国の前例の慣例として、正任の国守の着任以前に、ほかの官吏がたやすく入国するようなことはこれまでになかった。興世王ら国司は、武芝の無礼をいい立てて、武力を用いて強引に入国した。武芝は、公権力を恐れて、しばらく山野に隠れることにした。興世王らは、思いのままに武芝の家宅やその縁者の民家を襲って、物資を残らず略奪し、残った家宅は放置したまま去っていった。”
この争いの急報を聞いて、将門は引き返して興世王ら国司と、武芝との間を取り持とうとする。興世王、武芝、将門は和解のための酒宴を設けて華やいだ雰囲気になったが、武芝の後陣の兵たちが理由もなく、経基の営所を包囲したため、経基は兵とともに驚いて逃げた。そのまま都へ戻り、興世王と将門が謀叛を起こそうとしていると奏上した。
源経基は八幡太郎義家をはじめとする河内源氏の始祖で、義朝、義仲、頼朝、義経はこの血筋になる。武家の棟梁が包囲されてほうほうのていで逃げ帰ったことを将門記の作者はわらっている。
つづく。
こんにちは。
その7は途中で消えてしまってm(__)m
大河ドラマの「風と虹と雲と」はDVDがあるからレンタルで観ました。
今の研究から考えると全然足りていないのですが、将門記の通りにうまく書いていましたね。
加藤剛、緒方拳、草刈正雄、山口崇などなど有名な俳優さんがたくさん出ていて、吉永小百合も端役ぽく出ているので時代だなあって思います。
その4から読ませて頂きました^^
平将門視点から見ると、色々大変そうですね。
『馬に罹って、風の如くに追い攻めぬ』という将門の、凄まじい戦いぶりを見てみたい(^^♪
大河ドラマの主人公にしたら映えそうだな~と思ったら、1976年に抜擢されているようですね。
全然知らない時代なので、kiriさんの日記で勉強させて頂きます(*^^*)