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将門って本当はどんな人だったの? その8

源経基の奏上を受けて、将門の主君の太政大臣藤原忠平家が謀叛の実否を明らかにするように命じた御教書を天慶2年3月25日付で平将門に下した。
中宮少進多治真人助真に託された御教書を同月28日に受けとった将門は、常陸、下総、下毛野、武蔵、上毛野の五ヵ国の解文をとって謀叛が無実であると言上した。

この頃に、将門に執拗な攻撃を仕掛けてきた伯父の平良兼が出家してそのまま病没する。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”武蔵権守興世王と新司(新任の国司)、武蔵守百済貞連とは互いに不和であった。貞連とは、天慶二年五月に武蔵守に任命された前武蔵介従五位下百済王貞連のことであるという。(『類聚符宣抄』)
貞連は姻戚でありながら、決して、興世王を国政に参加させなかった。興世王はこの状況を恨んで、下総国に寄宿した。一方、諸国の善状により将門の武蔵国の紛糾を調停した功績に対して、評価しようということが宮中で話し合われた。善状とは、善(将門の正しい行動)を奏する(諸国の)文書のことで、ここでは、将門が集めた五ヵ国の解文のことを指す。将門は、こうした恩恵を受けて、その威勢を振るった。
しかし、実際には、そうした恩賞は、とくに行なわれなかった。のちに記す将門の書状では、将門は「公家褒賞の由なし」と書いている。『今昔物語集』に、『朝廷は将門の言い分をお聞き入れになって、かえってお褒めがあった」とあるのが実条であったのかもしれない。”

とあって、この時は謀叛は無罪とされた。しかし、その年のうちに将門は謀反人となって板東の新皇へと駆け上っていく。

つづく。






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