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将門って本当はどんな人だったの? その10

常陸介の藤原維幾を追放して、常陸国府を滅ぼした平将門は、興世王の「常陸国一国を討ったのみであるとしても、公の咎めは軽くはないであろう。同じことならば、坂東を奪い取って様子をうかがおう」と持ちかけて将門はその言葉に乗った。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”将門はこれに対して、「将門の考えも、まさにそのとおりだ。なぜなら、斑足王子は帝になろうとして、まず一〇〇〇人の王を殺そうとした。また、ある太子(古代インドのマガタ国の阿闍世太子を指す)は父の帝位を奪おうとして、その父を七重の牢獄にいれたという例があるからである。将門は桓武天皇の血筋の三世高望王の後裔である。同じことなら、坂東八国(常陸・下総・上総・安房・下野・上野・武蔵・相模)から始めて、都を奪おうと望むものだ。今はまず、坂東諸国の国印と鍵を奪い、国司をすべて都に追いあげてしまうべきであろう。そうすれば、坂東八国に自分の側の国司を任命し、すべての民を思いのままに手なづけることもできよう」と答えた。”

将門に好意的な書き方をしていた将門記であるが、藤原玄明を受け入れたあたりから、批判的な文章になっていく。伯父平国香、伯父平良兼、叔父平良正らとの争いは将門にも理があって、伯父らの非道もあった。しかし、藤原玄明を匿って以降は、常陸、下野を襲い、略奪するなど本当に人民のためかという点も多く出てくる。

製鉄民族が朝廷にすべてを奪われて作物ができない土地へと追いやられたのは事実だけれども、将門は坂東で一目置かれていた。もう少しうまくやることもできたはずだったのだが。

「QED 御霊将門」高田崇史著によると。

”後年『将門記』に『同じくは八国より始めて、兼ねて王城を虜領せんと欲す』『ここに於て自ら諡号を製奏し、将門を名づけて新皇と曰う』と記されているが、これも『将門記』の著者が直接に見聞きしたことではないんだ。だから『まして将門公が京都に攻め上ろうとしたこともないし、天皇の位についたこともないのである』と『神田明神史考』は言っている。そして『将門公にとって不幸なことは、「将門記」のこの記事がまともに信用され、流布されたことである。さらに、極度の天皇尊重思想のもとに書かれた「神皇正統記」「日本外史」「大日本史」などの歴史書に「解釈された事実」が記されて、反逆者・朝敵という評価が定着してしまったのである』とある。”

と反対の記述もある。将門記の初期と藤原玄明を匿ってからでは将門評価が正反対になることにも疑問が残る。

とはいえ、将門は新皇宣言をして坂東で戦を始めてしまった。

つづく。





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