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将門って本当はどんな人だったの? その12

新皇に即位した平将門は主君の藤原忠平家へ書状を奏上している。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”将門が謹んで申し上げます。お教えをいただかなくなって多くの歳月がすぎました。拝謁の望みがきわまり、あわただしいあか、どのように申したらよいかと思いますが、御考察を賜るならば、ありがたく幸せでございます。
さて、先年、源護らの愁訴によって、朝廷は将門をお召しになりました。官符(承平五年<九三五>十二月二十九日の官符)に恐れ入り、すぐさま上洛し、参上していた間に、恩赦により帰国を許され、すでに旧居に帰着しました。その後は、戦いのことをすっかり忘れて、弓弦をゆるめて安らかにすごしていました。
そうしている間に、前の下総介平良兼が数千の兵で、将門を襲撃してきました。敗走できず、防戦する間に、良兼のために人を殺傷され、物を奪い取られたことを詳しく下野国(現、茨城県・千葉県の一部)の解文に記し、朝廷に言上しました。そこで、朝廷は、諸国が勢力を合わせて、良兼らを追捕せよという官符をくだし、事が決着しました。ところが朝廷は、今度は将門らを都に召喚しました。しかし、将門は気分を害して上洛せず、官使(太政官の使者)の英保純行らに託して、詳しく事由を言上しました。
朝廷から裁定の報告を出ず、気がふさいで晴れないでいると、今年の夏に、平貞盛が将門を召喚する内容の官符を手にして常陸国(現、茨城県)に至り、それにより常陸の国司が頻りに文書を将門に送ってきました。そもそも貞盛は、追捕を逃れて、こっそりと上洛した者です。当然、朝廷では貞盛を捕らえて糾明しなければならないと存じます。それなのに、かえって貞盛の理にかなう官符をくだしました。これは、うわべを偽り飾られた処置にほかなりません。さらに右少弁(太政官のもとで庶務雑政を処理する弁官の職の一つ)の源相職から、武蔵介源経基の告状により、将門を推問する旨ののちの官符が出たと記した書状が届いたので、詔使が到来するときを待っていました。
その頃、常陸介藤原維幾の息男為憲は、公権力を借りて、まったく無実の者を罪に陥れていました。将門の従兵藤原玄明がそれを将門に愁訴したため、その事情を聞こうとして、常陸国に出向きました。ところが、為憲と貞盛らは同心して、三〇〇〇人余りの精兵を率いて、兵庫(武器庫)の武器などを取りだして、戦いを挑んでまいりました。そのため将門は、士卒を励まし、意気を高めて、為憲の軍兵を討滅してしまいました。
一国(常陸国)を領有する間に死んだ者の数は、どのくらいかわかりません。いうまでもなく、存命する民は、すべて将門のために捕虜になりました。維幾は、息男の為憲を教導せず、兵乱におよばせた罪を認めて、過失を詫びる書状を記し、すでに事件は終息しました。将門は、本意ではありませんでしたが、一国を討滅してしまいました。その罪は軽くはなく、百国を滅ぼしたのと同じぐらいの重罪でしょう。
これにより朝廷の評議にかけられましたが、その間に将門は、坂東諸国を押領しました。
わが父祖以来の系譜を考えてみると、将門は桓武天皇の五代の子孫です。たとえ、長く国の半分を領有しても、それは天から与えられた運であるといえましょう。武力で天下をとった例は、史書に多数みえます。また、将門が天から授かったものは武芸です。同輩のなかでは、将門に比べられる者はいません。しかし朝廷は、将門に褒賞をすることもなく、しばしば過ちを糾す官符をくだされました。わが身をかえりみると、恥が多く、面目がありません。このことを推察くだされば、甚だ幸いです。
将門が少年のときに太政大臣の大殿(藤原忠平)にお仕えしてから数十年が経ち、今日に至りました。その太政大臣が摂政の時代に、思いもかけず、こうした大事件をおこしました。嘆かわしい思いがきわまり、言葉にあらわして申し上げることができません。将門は国を滅ぼそうとする謀りごとをおこしましたが、昔の主人の貴方様を忘れることはありません。
さらに、この心をお察しいただければ幸甚です。この旧主を忘れぬ一つの思いがこの書状のすべてを貫き通しています。以上、将門が謹んで申し上げます。
天慶二年十二月十五日
謹々上 太政大殿少将閣賀 恩下”

この書状は「太政大殿少将」宛てで当時左近少将だった藤原忠平の第四子藤原師氏へ送ったものと考えられている。将門が本当に出したもののか、将門記の作者の創作なのかも意見が分かれている。

いずれにしても将門は自分が信じた道をまっすぐに進んでやりすぎはあったとしても間違っていないという思いがあったのは確かであろう。

つづく。

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2019/11/22 15:29
>ゆりかさん
こんにちは^^
将門はかなり身体が大きくて、鉄製の大きな武器をぶんぶん振り回して突っ込んでくる感じだったみたいです。
平将門の頃は武士が力をつけてきた時代で、のちのち源平合戦や戦国へつながっていきますね。
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2019/11/21 17:37
こんばんは、kiriさん。
その10から読ませて頂きました^^

将門軍って、すごく強かったんですね~。
「将門が天から授かったものは武芸です。同輩のなかでは、将門に比べられる者はいません」って、自信満々!
でも恥が多く、面目もないって所に将門の人間らしさも感じます。

この時代は勉強不足なので、また学ばせて頂きに来ますね(*^-^)




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