将門って本当はどんな人だったの? その13
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- 2019/11/22 15:25:41
平将門が新皇を称したとき、誰も反対しなかったわけではない。弟の将平や側近の伊和員経が諫言しているのだが、まったく聞く耳を持っていなかった。権力を手にして戦で勝ち続けて有頂天だったのか、それとも、正しい道を進んでいると信じて疑わなかったのか。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”将門の弟将平らは、つぎのように諫言した。
帝王の大業は人の智によって競うべきではないし、また力によって争うべきではありません。昔から今に至るまで、「天を経とし地を緯とする君、業を纂ぎ、基を承くう王」という地位は本来、天が与えたものであります。どうして、新皇に即位するとき、皆にしっかり諮かり、議論しないのでしょうか。このままでは、おそらくは、後世に批判があるのではないでしょうか。決して新皇の位についてはいけません。
それに対して、新皇子は、つぎのように答えた。
弓の武術はすでに、異朝(中国)、本朝(日本)をともに助けたことがあり、矢を射返す弓術の手並みは、人の命を縮めるのを救ってきた。将門は、仮にも兵の名を坂東にあげ、合戦の手腕を中央と地方に知らしめて評判を高めてきた。今の世の人は、必ず勝者を主君とするのである。たとえ、わが国に前例はないとしても、外国にはいろいろと多くの事例があるのだ。”
将門記では、将門が新皇と名づけられたのを受けて、将門を新皇と記述し、天皇に用いられる「勅す」「賜る」「奏す」「勅歌」「勅命」などなどが使われるようになっていく。
”将平らの諫言に対して、新皇はさらに、
去る延長年間(九二三~九三一)に「大赦契王」らが渤海を滅ぼして、東丹を建国して領有したように、力をもって国を奪い取った例はある。加えて、わが軍は、多くの人びとの集団の力をもって事にあたるうえに、敵と戦い、討ち取って功績をあげてきた。山を越えようとする心に気後れはない。巌を破ろうとする力は弱くない。戦いに勝つ心は、中国の漢王朝を開いた高祖劉邦の軍勢をも凌ぐであろう。もし八国を領有したときに、朝廷が全力をあげて追討してきたら、足柄・碓井の二関をかためて坂東を守ろうと思う。汝らが申すことはまったく物事に疎いでたらめである。
とのべた。おのおのは、強い叱責を受けて引き下がった。”
”また、将門がくつろいでいたとき、かたわらに仕える伊和員経が、
諫言する臣がいれば、主君は不義に落ちません。もし諫言を取り上げなければ、国家が危なくなるでしょう。天命に逆らえば禍があり、王に背けば責めを受けると申します。そうか新天、古代インドの名医耆婆が行なったような諫言を信じて、すべてを推し量った裁定をしてくださいませ。
と言上した。新皇はこれに対しても、
すぐれた才能は、人によっては欠点となり、人によっては喜びとなる。ひとたび句言葉を口にすれば、四頭立ての速い馬車も追いつけないほど早く広まるという。そのゆえに、言葉にだしたことは、成し遂げないわけにはいかない。決めた議事をくつがえすなど、汝らの無心(思慮・分別のなさ)は甚だしいものである。
と答えた。員経は舌を巻き、口をつぐんで、引きこもった。昔、秦の始皇帝が書物を焼き、学者を穴埋めにしたような状況では、誰も強いて、将門を諫めることができなかった。”
この部分は。『帝範』『臣軌』『論語』などを下敷きにした議論がされていることから、作者の創作ではないかと思われる。
部下の諫言があったかどうかは確かめようがないが、将門は口に出して言ってしまい、戻ることもできず、滅亡へと住んでいるように見える。
将門を武士の祖とするなら、武士に二言なしで長篠で鉄砲隊に突っ込んだ武田騎馬軍団や新政府軍に勝算もないままに突っ込んだ会津藩を想い起こさせるね。
つづく。