将門って本当はどんな人だったの? その15
- カテゴリ:勉強
- 2019/11/27 15:45:44
平将門の謀叛を知った朱雀天皇はあわてふためき、七大寺から名僧を招請して、八代明神に供物を捧げて、将門を打ち払うように要請している。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”「私は皇位を受けて、幸いに国家をおさめる事業の基礎を引き継いだ。しかし、将門が乱悪な武力をもって、国位を奪おうとしている。昨日、この報を聞いた。今日は必ず攻め上がってくるだろう。早く諸社をもてなして、この邪悪な行いをとめていただきたい。すみやかに仏の力をいただsき、この賊難を払っていただきたい」というと本皇は、玉座をおりて両手を額の上であわせて祈った。”
このときに調伏を行なったのが、
”醍醐寺(京都府京都市)では、五大堂の本尊の所持する御剣がじっとりと血を滲ませた。宇佐八幡宮(現、宇佐神宮<大分県宇佐市>)では八幡大菩薩が白髪の老人の姿であらわれ、丘の上から白木(皮を剥ぎ、白く削ったままで何も塗っていない木)の弓に藤の蔓を巻いた狩俣の矢をつがえて、呪文とともに射放った。伊勢神宮(三重県伊勢市)では、甲冑を帯びた神兵が白雲に乗って、東を指して馳せて行く姿がみえた。奈良の東大寺法華堂にある執金剛神像は蜂となって将門の軍中に飛来し、将門を刺した。美濃国の中山南神宮寺(現、真禅院<岐阜県不破郡垂井町>)で明達が四天王法を修したところ、にわかに香煙(香を焚く煙)が堂中にたしこめ、臭いにおいが国中に充満した。比叡山延暦寺(滋賀県大津市)では、天台座主の尊意が調伏を行なったところ、灯明の炎のなかに弓箭(弓と矢)を帯した将門の姿があらわれた。さらに、東国では、伝説かもしれないが、成田山新勝寺(千葉県成田市)の調伏が知られている。”
現実にこの世で起こっている謀反を、神仏に祈ったところで勝手に不可知の力によっておさまることはあり寝ないから、寺なり神社なりの勢力が調伏のためにいくらか兵力を出したというのが妥当であろう。
さらに朱雀天皇は、藤原忠文を征東大将軍に任じ将門追討を命じる。藤原忠文はこのとき68歳だったと言われている。
つづく。