将門って本当はどんな人だったの? その16
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- 2019/11/28 15:58:30
年が明けて天慶三年正月、平将門は坂東諸国を平定すべく5000の兵を引き連れて常陸国へ出向いて、平貞盛と藤原為憲の行方を捜した。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”なおも捜索を続けている間に、一〇日ばかりがすぎた。しかし、貞盛らはみつからず、やっと吉田郡蒜間の江の辺りで貞盛と源扶の妻を捕らえることができた。部将の多治経明・坂上遂高らの軍中に妻たちを拘束した。新皇はこのことを聞き、女性が辱めを受けないように勅命をくだしたが、それ以前に、その兵たちにより皆陵辱されていた。とくに、貞盛の妻は衣服を剥ぎ取られ裸にされており、手の施しようもない状態であった。貞盛の妻の目からあふれる涙は顔の白粉を落とし、胸中に燃えあがった恨みの炎で心の内は煮えくり返るようであった。これまで、国の内外で噂された女性の恥が、今や自分自身の恥となったのである。貞盛の妻は、敵に報復しようとして、かえって、その敵に遭って恥辱を受けてしまったが、生前に受ける恥は、多くの人びとにあることであるから、人のせいにしても天を恨んでもしかたがないと思うのみであった。
かたわらにいた部将らが新皇に、「貞盛の妻は容貌がいやしくありません。罪を犯した過ちは夫の貞盛にあり、妻にはありません。情けをかけて、早くもとの土地に帰してやるようお願い申し上げます」というと、新皇は、「女性の流浪者はもとの土地に帰すのが法令の慣例である。また、寡夫・寡婦、孤児、子のない老人など身寄りのない者を救うのは、古来の帝のつねにかわらない規範である」と答えた。そして、一揃えの衣服を貞盛の妻らに与え、妻の本心を試そうとして、即座に歌を詠んだ。
よそにても風の便りに我ぞ問ふ 枝はなれたる花のやどりを
(よその離れた場所にいても、私は風の便りによってあなたに問う。枝を離れた花の宿りを)すなわち、「あなたのところから離れて行った夫、貞盛が宿る場所を聞きたい」。
貞盛の妻は新皇の深い恩恵を受けて、これに唱和して詠んだ。
よそにても花のにほひの散りくれば 我が身侘びしと思ほえぬかな
(よその離れた場所にいても、花が光に映えて散りかかってくるので、私はわが身が侘びしいとは思われないことだ)すなわち、「夫が離れていても、はっきりと温情がふりかかるように感じるので、わが身を侘びしいとは思っておりません」。
その際に、源扶の妻はわが身の不幸を恥じて、人に託してこのように詠んだ。
花散りし我身もならず吹く風は 心もあはきものにざりける
(花が散ったわが身はもう実もつけることもなくどうにもならない。吹く風に、心もはかないことであるよ)すなわち、「夫が亡くなった私はもう子を生むこともなくどうしようもない。無常な世間の風に、むなしく思われることよ」。
このように、歌を詠み交わして言葉の遊びにふけって、人びとは気持ちをなごませ、朝廷への反逆心をしばらく休めた。”
「QED 御霊将門」高田崇史著によると。
将門の歌と貞盛の妻の歌の交換はまったく意味が違うという。
”つまり、このように流浪していて悲惨な目に遭っていたのではないかと尋ねた将門に対して、敵側のあなたからも親切にされたので、侘びしいとは感じません、と答えたわけだ。
中略
露伴翁もこう言っている。
『前に将門の妻が執へられ、今は貞盛の妻が執へられた。……衣一襲を与へて放ち還らしめ、且つ一首の歌を詠じた。……清宮秀堅がここに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである』とね。”
と将門がすばらしいと褒めている。ただし、将門記では書かれていない将門の妻が殺されているとか貞盛の妻らの陵辱の場面が抜け落ちているなど恣意的に将門をよく見せている部分もあるのは事実ですべてがその通りとは言えない。
つづく。