将門って本当はどんな人だったの? その17
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- 2019/12/02 19:12:42
新皇平将門は常陸国で平貞盛らの探索を続けたが動向をつかむことができず、諸国の兵たちはそれぞれの国へと帰した。そのことを知った貞盛と押領使藤原秀郷は4000余りの兵を率いて合戦を挑んできた。
「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。
”将門と秀郷の会見説話
延慶本「平家物語」には、将門と藤原秀郷が会見した記述がある。将門は坂東八国を従えていた。そこへ、大軍を率いて秀郷が駆けつけた。将門は喜んで、髪も結わず大童のままで迎えた。しかも、みずから円座を2枚もって、それぞれ1枚ずつに座った。この態度をみて、秀郷は将門が天下をとる器ではないと思い、加担するのを断念した。
これが、「吾妻鏡」では、将門が謀叛を企てた際、秀郷が面会を申しいれた。将門は喜んで、ざんばら髪を結わず烏帽子にいれて出た。秀郷はその軽率ぶりに、戦っても勝利できると確信したというのである。
また、栃木県の今市(現、日光市)に残る伝説では、秀郷が将門と会見し、食事をした際、将門がポロポロとご飯をこぼした。そこで、秀郷は将門を小人物として見限ったという。このことにちなんで、その場所を飯倉粒村(現、日光市猪倉)としたという。”
「QED 御霊将門」高田崇史著によると。
”しかしこれに関しても、海音寺さん(海音寺潮五郎)は言う。
『この話は、周公旦が賢人をもとめるに切なるあまり、一度髪を洗う間に三度もやめて客を迎え、一度の食事に三度も口中の食べものを吐き出して客を迎えた(一沐に三たび髪をにぎり、一飯に三たび哺を吐く)という美談を逆用したものであることは明らかだ。信ぜられないのである』とね。
但し、秀郷が将門を訪れたというのは、どうやら本当らしい。というよりも、まるで日の昇るが如き勢いの将門に挨拶に行くのは、同じ東国に住む豪族として必然の話だ。そしてこのエピソードは海音寺さんのようにも理解できるけれど、これがもしも本当にあった事柄だというならば、また別の解釈としてこうも考えられるー。それまで自分と同じように東国で大暴れしていて、しかも朝廷から疎まれていた先輩格の秀郷が、自分からわざわざ訪ねに来てくれた。そのために将門は、あわてて対応に出ただけの話だったんじゃないか。また、ご飯粒の件もそうだ。前にも言ったように、猿島では米は本当に貴重な品だった。だから、こぼしてしまったからといって捨てるわけにはいかない。そこで拾って食べたんだろう”
つまりは、将門を貶める記述は秀郷の言い訳ではないか。秀郷は将門討伐で従四位下にのぼり、下野と武蔵の国司と鎮守府将軍に任命されている。出世のために将門を裏切ったとも、金に目がくらんで将門を討ったともいえる。だからこそ、秀郷は将門の怨霊を恐れた。
つづく。