将門って本当はどんな人だったの? その18
- カテゴリ:勉強
- 2019/12/03 15:47:22
藤原秀郷は藤原北家魚名から数えて、藤成、豊沢、村雄、秀郷と繋がる。秀郷からは千晴、千清、正頼、頼遠、常清、清衡と奥州藤原氏へ、千常、文脩、文行、公光と繋がって佐藤公清からは西行や源義朝の乳兄弟の鎌田正清へつながり、波多野氏、大伴氏、少弐氏など名門に連なる武士の始めとなるが、もともとは平将門を討ち取ることで得た名声であって、それまでは罪人だった。
「QED 御霊将門」高田崇史著によると。
”『本朝文粋』には、天慶三年正月十一日の太政官符に将門討伐を令し、『もし魁帥(将門)を殺さば朱紫の品、田地の恩賞を賜り、とこしえに子孫に及び、これを不朽に伝う。また次なる将を斬れる者は、その勲功のまにまに官爵を賜う云々』と記している。
(中略)
そして最も驚くべきは『朱紫の品』ーつまり、五位以上の『人』たちが着る衣服を与えるということだ。
平安時代に『人』といわれていたのは、昇殿を許された従五位以上の人々だった。ちなみに『よき人』というのは、従四位以上の貴族たちだった。その上、昇殿を許されるか許されないかという、正六位上と、従五位下には、まさに大きな隔たりがあった。滔々と流れる大河のごとくにね。
しかも現実的にも、五位以上の者はさらに大きな特典を与えられていたんだ。まず、大逆罪以外は無条件に罪一等を減ぜられた。次に官当ー官位をもって罪を贖う際にも、公罪の場合は官位一官をもって『徒』三年にあてられた。そして、私罪の場合は一官をもって二年にあてることができたんだ。また、官当に足りない刑は、半年十斤の割で銅をもって贖うことが許されていた。もちろん一般庶民には、そんな特典などカケラもない。
だから、この境を超えようとして、貴族たちは官位欲しさに日々汲々として暮らしていた。コネを頼ったり、賄賂を使ったりしてね。だがここで朝廷は、将門を討った者には、無条件でこの官位を与えるという驚天動地の通達を出したんだ。”
「日本紀略」にも「罪人・藤原秀郷」と記されている秀郷は、将門を討つことで一気に貴族へ成り上がった。のちのちに繋がる名家の血筋は、坂東の片隅で罪人として落ちぶれていた藤原魚名の子孫が、チャンスをものにしたと言える。
つづく。