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将門って本当はどんな人だったの? その19

多くの兵をそれぞれの国へ帰してしまったため、将門の兵は1000人ほどに過ぎなかった。しかも、藤原秀郷らの4000人の軍を捕捉した藤原玄茂、多治経明、坂上遂高ら後陣は将門に報告することなく秀郷軍と戦い、散々に破られて四方の野原に逃げ散っていった。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”貞盛と秀郷らは、敗走する敵を追い、同日、未申の刻(午後三時頃)に、川口村を襲撃した。新皇は声をあげて敵を迎え撃ち、剣を振りかざしてみずから戦った。貞盛は天を仰いで、「私兵の賊、すなわち将門軍はまさに雲の上の電(雷)のようである。それに比べて公の従者のわが軍はまるで厠の底のウジ虫のようなものである。しかし、私兵のほうには拠るべき道理がない。公のほうには天の助けがあるのだ。わが軍の兵たちは皆、決して敵に背を向けてはならない」といった。
未の刻が過ぎて、夕方になった貞盛らの軍兵はそれぞれ、李陵のような勇猛な心を奮いおこし、力の限り戦った。まさに男子が誕生した儀式のように、桑の弓は気持ちよく引かれ、蓬の矢がまっすぐに当たるという状況になった。貞盛らの軍はいつもより強く、将門軍は普段より弱かった。さすがに、新皇も馬の口を後ろに向けて、楯をおさめて退却した。たとえてみれば、昨日の雄は昨日の雌となりかわったのである。そこで、常陸国の軍(貞盛らの軍)は、敵をあざけり笑って、宿営にとどまった。下総国(現、茨城県、千葉県の一部)の兵(将門軍)は、怒り、恥じながら早々に立ち去った。
その後、貞盛・秀郷らは語り合った。「将門とて、もともと千歳の命があるわけではない。自他ともに皆、それぞれ寿命のある一生の身なのである。それなのに、将門一人がこの世にのさばり、思いのままに振る舞っていて、物事の妨げになっている。国外では、乱悪を朝から晩まで行い、国内では、権勢や財利を国や郷から貪っている。坂東の大きな木食い虫(樹皮下や材部に穴をあけて生活し、多くは林業害虫とされる)や地方の毒蛇もこれより甚だしいものではない。かつて聞いた伝承によると、霊力をもつ蛇や大きな雌鯨を斬って天下を鎮めたという。『漢書』によれば、霊蛇というのは人間の蚩尤(中国の神話上の人物)のことであるという。『春秋左氏伝』(『春秋』の注釈書)では楚子(楚の荘王)が、『長鯢
は大きな魚のことであるから、不義の人間が小国を飲み込むことにたとえるのである』といっている。まさに今、凶賊の将門を殺して、乱を鎮めなければ、事態は私的な争いから国家への叛逆におよんで、天皇の位をも損なうことになるのではないだろうか。『尚書』(『詩経』の別称)には、『天下が安定していても、その維持のために戦わなければならず、甲冑を着けた兵士は強いけれども、訓練しなければならない』とある。たとえ、今回の戦いに勝ったといっても、あとの戦いのことを忘れてはいけない。そればかりでなく、中国の周を建国した武王が病にかかると、弟の周公旦が武王の死後、幼い成王を補佐したという故事がある。われらも一人が倒れれば、一人がかわって戦おう。われらは公の命令によって、将門を討とうとしているのだ」。そこで、貞盛らは、群衆を集めて巧みに弁舌を振るい、兵士の数を増して、天慶三年(九四〇)二月十三日に将門軍の根拠地である下総国との国境に到着した。”

このころにはすでに公の軍は私兵には負けないという思いが兵たちにもあった。ということがわかる。

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2019/12/17 15:52
>ゆりさん
こんにちは^^コメントありがとうございます^^
将門首塚は東京の大手町にあっていろいろ不思議なことがあるとして有名ですね。
壊したり移したりしようとすると呪われてってことが起こるとか。
といっても、首塚のところにはもともと神田明神が祀られていて神田明神は今のところに遷座なさっているからホントに祟りがあるかどうかは検証されていないんです。
触らぬ神に祟りなしですからね。

あと、将門研究の村上春樹さんは、ノーベル文学賞とるかもの超有名な村上春樹さんとは別人ですよ。
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2019/12/16 16:07
平将門さんの墓がめっちゃ怖くて有名らしいお。村上春樹さんってたまーに読んでるナリ。なんかおぎやはぎがその墓にいたずらした話とかもあるって…




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