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将門って本当はどんな人だったの? その20

むかし、将門が頸、獄門にかけられたりけるを、藤六という歌読が見て、

将門は米かみよりぞきられける俵藤太がはかりごとにて

とよみたりければ、此首しいとぞわらいける。二月に討たれける頸を四月に持て上がりて懸けたりけるが、五月三日にわらひたりけるぞ恐ろしき。(平治物語)

平貞盛、藤原秀郷らは平将門の本拠地である石井辺りを焼き払った。将門は兵が戻ってくるのを待つことができなくなり、400余りの兵で4000余りの官軍を迎え撃った。このとき既に人心は将門から離れていたと『将門記』には書かれている。

「QED御霊将門」高田崇史著によると。

”天慶三年(九四〇)二月十四日。秀郷・貞盛の連合軍四千余人は、将門軍を急襲した。その時、将門軍は総勢四百余人。最初から圧倒的に不利だった。しかし、一刻の猶予も許されなかった将門たちは、やむなく猿島に陣を敷いた。但し、その具体的な地名は、判明していない。”

将門は幸嶋郡北山とあり、現茨城県坂東市上岩井、駒跿、辺田辺りと推定されているが特定はされていない。

”『十四日未申の剋を以て、彼此合い戦う。時に新皇は順風を得て、貞盛・秀郷らは、不幸にして吹下に立てり。その日、暴風は枝を鳴らし、地籟は塊を運ぶ。新皇の南の楯は、前を払いて自らに倒れ、貞盛の北べる楯は、面を覆う』
ー二月十四日、午後三時に将門たちはついに戦火を交えた。南面して構えていた将門たちは、恐ろしいほどの勢いの北風に乗って、貞盛・秀郷軍を責め立てた。それくらいの烈風が吹いたかというと、将門軍の楯は俯せに、貞盛・秀郷軍の楯は仰向けに倒されてしまうほどだったという。つまり貞盛たちは、楯が自分たちの方に倒れて来て、目も開けていられないような状況だった。そのため、この機に乗じて将門たちは、あっという間に貞盛の中陣を撃破した。そのために、
『貞盛・秀郷・為憲らが伴類二千九百人、みな遁れ去りぬ。ただに遺るところの精兵は三百余人なり』
例の、伴類たちは瞬く間に逃げ去ってしまい、貞盛たちの周りには。三百人余りの兵士かいなくなってしまった。しかも全員浮き足立っている。
しかし、これが運命というものなんだろうか。
『時に新皇、本陣に帰るの間、吹下に立ちぬ。貞盛・秀郷ら、身命を棄てて、力の限りに合い戦う。ここに新皇、甲冑を着て駿馬を疾めて、躬自ら合い戦う。時に現に天罰ありて、馬は風飛の歩みを忘れ、人は梨老が術を失えり。新皇は、暗に神鏑に中りて、終に託鹿の野に戦いて、独り蚩尤の地に滅びぬ。天下に未だ、将軍の自ら死せることあらず』
ーということになってしまった。”

『将門記』では神の鏑矢に当たって将門は討ち取られるとあり、『扶桑略記』『古事談』では貞盛の矢に当たって秀郷が討ち取ったとある。いずれにせよ、将門の命運は尽きてついに官軍に屈することとなった。

つづく。





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