将門って本当はどんな人だったの? その23
- カテゴリ:勉強
- 2020/01/14 15:38:14
桔梗前から、将門の影武者には影はできない。こめかみだけは生身である。と弱点を聞き出した藤原秀郷は将門を討つべく兵を挙げる。
兵のほとんどを国へ帰していた将門は5000を率いて藤原秀郷・平貞盛らを迎え撃つ。
「QED 御霊将門」高田崇史著によると。
”『こめかみ』というのは『米かみ』で、つまりそのまま『米』のことだったんじゃないかと思っている。
何度も言ったように、米はこの地方では、とても貴重品だった。だから、ちょうどこの時期には半農半兵の農民たちは、田を耕しに出なければならなかったんだ。二月の初旬は、太陽暦でいえば三月中旬くらいに当たっていただろう。伴類である兵は、雪解けと共に村へ帰り、日常の生活に戻る。だから実際に、この頃の戦いは刈り入れが住んだ十一月頃から、農事が始まる三月頃までの間に行なわれていたんだ。ということはつまりー貞盛と秀郷は、最初から、敢えてこの時期を狙って待っていたんだろう。”
農民が米を作らなければ民たちは食べていけない。戦もできない。どんなに将門が強くても兵が飢えてしまえば彼らの力は半減する。だから、農民たちが帰ってしまう時期まで待って将門を攻め立てた。
”田は、昔から鬼の物だったと言っても過言じゃないほどにね。もともと『田』という文字は『耕す』という意味だったが、同時に『鬼』の頭を象った文字にもなった。事実、こんな諺もある。『田の神(鬼)は春に山から下りて来て、秋に山へ戻る』ー”
節分の鬼は「田の神=春の神」のことだ。だから、豆をまき、イワシの頭を備えて、外で農作業をしてもらう。収穫したものを取り上げる人が福だけを手にするのだけど、結局のところは鬼がいないと福もなくなってしまう。
”実は、安倍晴明は、将門の子供の将国だったのではないかという話。将国は、将門死後、常陸国信田郡に住んで、信田小太郎と称していたという。将門が幼い頃に、相馬小太郎と称していたのに倣ったんだろう。しかしここで、安倍晴明が生まれたのもー信田森ー
晴明の家紋の五芒星は、またの名を『晴明桔梗』とも呼ばれていた。桔梗前から取っているのではないかともいわれている。”
平将国と安倍晴明が生きた年代が重なっているからこそ生まれた伝説だが、東北には晴明縁の神社も多い。陰陽道の知識を狐の子の晴明はどこで身につけたのだろうか?
つづく。