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将門って本当はどんな人だったの? その24

藤原秀郷・平貞盛らが農繁期となる2月初めに軍を動かして平将門を攻め滅ぼしたことは、当時の常識から外れていたかもしれないが、”兵は詭道なり”という孫子の兵法からはまったく外れてはいない。将門がうまく立ち回っていれば平貞盛と手打ちして坂東を手中に収めることができたし、朝敵になることもなかった。チャンスはなんどもあったが、将門は勝ち続けたことで過信してしまったのではないか?

将門が坂東で圧倒的に強かったのは事実で、俵藤太物語では、将門の愛妾の桔梗前が裏切って弱点を教えたことで秀郷が手柄をあげたことになっている。将門はひどいことをしたから身内にも裏切られるんだっていう、敗者を貶めることで民心が将門へ向かないような騙りで、古文書は当たり前のように勝者を讃え、敗者を踏みつけにする。

それでも本当のことは人々が覚えていて昔語りに語って伝わっていく。

「QED 御霊将門」高田崇史著によると。

”実際に、北相馬郡の伝説によると、全く様相が異なってしまう。たとえばー。桔梗前は戦いの間中、一心に将門の勝利を祈っていたが、将門敗れるという情報を得てその場で入水してしまったとか……。またある伝説では、追っ手に捕まってその場で殺害されてしまったとも、あるいは逃げ出したものの、逃げ切れないことを察して自害してしまったともいう。
また、千葉県にはこんな話もある。船橋の天沼弁天池公園は、桔梗前が失意の余り身を投げた海岸線があった場所だといわれているんだ。今は広い公園の鬼門にあたる一隅に、小さな朱塗りの祠ー弁財天が祀られているだけだけれどもね。また東金地方では、桔梗前は将門の母親となっている。彼女が将門を懐妊した時、父親の良将は占い師を呼んで我が子の行く末を見てもらった。すると占い師が言うには、この子はいずれ天下に大乱を起こすだろうということだった。そこで良将は、母親の桔梗ともども小舟に乗せて海に流してしまった。
しかし、彼らはどうにかこうにか東金の浜辺に辿り着くことができた。そこで桔梗前は将門を出産した。やがて母親が亡くなった時、彼は桔梗前の菩提を弔うために妙善寺という寺を建立した。そのためにこの地方は『御門』という地名になったという。
なお、この妙善寺の山号も『帝立山』で、これは完全に桓武天皇ー帝の血を引く将門を意識した名前だといわれている。
またもう一つ東金の伝説では、桔梗前の方が将門より長生きをして、戦いに敗れた後も将門をずっと祀っていた東金の人々のために、白い大蛇と化して、水不足に悩まされたいた村を救ったという話も残っているんだ。"

蛇は水辺のもので河衆。カッパとか鬼とか山の民とかそういうふうに呼ばれていた製鉄民族で、まつろわぬ民のことだ。

当時の朝廷は産鉄地や製鉄場を武力をもって奪い取っていたから、将門の縄張りを奪うために乱を起こしたとした可能性もある。そんな史料はとっくに燃やされて、朝廷のプロパガンダにそうものばかりが書かれているだろうけれどね。

しかし、将門はこんなに慕ってくれていた桔梗前になぜ「桔梗あれども花咲くな」なんて言い残したのだろうね。

つづく。





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