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将門って本当はどんな人だったの? その28

平将門は桔梗を大事にし、民を慈しみ、朝廷に立ち向かった英雄だったとしたら、なぜ崇徳院、菅原道真と並ぶ三大怨霊として現代に伝わっているのだろうか。もちろん、将門が怨霊であったほうが都合がいい人たちがたくさんいたことは間違いない。誰も将門に近づかなければ将門は力を得ることができないのだから。

女人禁制と同じだ。鬼たちのすみかに誰も女性がいなければ彼らは時が減ると子孫を残すことができずに滅んでしまう。数が力だった時代に子どもを作れないのは致命的であった。

将門も怨霊にしてしまえば、近づく物はいなくなる。都合がいい人たちは明治政府だった。将門を旗印にして戦った幕府軍を壊滅させるためには将門は怨霊でなければならなかった。

「QED 御霊将門」高田崇史著によると。

”昭和の始めに、大蔵省で起こったこと。
この話に関しては、俺の手元には物的証拠は何もない。だから、ただの推測として聞いて欲しいんだが、俺は大蔵省の事件は祟りではなかったと思っている。そしておそらくは事故でもない。
この事件は、大正十五年九月十三日に時の大蔵大臣・早速整爾の死から始まっていくんだけれど、実は早速は、結局死因がわからなかったんだ。
その具体的な病名が分からなかった。以前に俺も気になったことがあって、当時の新聞をずいぶん調べてみたんだが、結局分からなかった。確かに現在ほど医学が発達していなかったから、そんな不思議なこともあるかも知れないけれど、しかし、時の大蔵大臣の死因が最後まで『不明』というのも変な話じゃないか。
しかし、続いて昭和二年五月二十四日、今度は大蔵省管財局課長の矢橋賢吉が亡くなった。こちらは死因が判明している。脳内出血だ。そして、その他にも何人か亡くなったり怪我をしたりした。
しかし、こうやって調べていた時に、この早速整爾と矢橋賢吉の二人には、また違う共通点があることに気づいたんだ。
二人とも、国会議事堂の設計に携わっていたということだ。
千代田区永田町一丁目にある、我が国の国会の議事を行なうために建設された建物だ。
実は、この国会議事堂には、一般国民に知らされていない謎や秘密がとても多い。設計者、施工者共に不詳、というだけでも怪しすぎるんだが、現在もほんの数人しか知らないような通路や部屋があるという。しかも、地下鉄の国会議事堂駅は
最初から核シェルターとして設計されているという説もある。だから、その構造自体が極秘事項になっているんだ。
地下鉄の路線図なども、地図によって微妙に異なっているらしい。というのも、あの辺りには陸軍の機密地下道が通っていたというからね。慶応大学日吉校舎の地下にある軍事基地跡は有名だけれど、おそらくそれよりも大規模な施設があったと想像されている。なにしろ、皇居のすぐ側なんだからな。地下鉄などは事実を公表していないといわれている。
少なくとも『何か』があった。実際に戦後は、GHQー我が国を占領した連合軍総司令部の接収地となって、一般人は立ち入り禁止となった。その事実が、そこになにか重要な施設が隠されていたことを証明している。そしてこれは、大手町一丁目も同様だった。
将門塚のある場所だ。
やはり、あの近辺も軍事上の重要拠点とされていたわけだ。だから、古墳があるために掘削ができないというのも、全部は嘘ではないとしても、半分程度しか信用できない。
そして、将門塚と国会議事堂の両方の場所に関わっていた、しかもかなり重要な位置にいた二人が、ほぼ時を同じくして亡くなっているというわけだ。
もっと具体的に言おう。国会議事堂の上棟式の前後にーだ。
事故らしき出来事は、本当にあったのかも知れない。しかし果して、そんなたった一回の事故で、あのGHQが開発の手を止めるだろうか。その運転手が事故に遭ったからといって、ストライキや暴動が起こったわけじゃないんだよ。ただ町会長が訴えたというだけだ。当時、天皇陛下よりも大きな権力を与えられてたGHQが、町会長の訴えなど聞くと思うか?力関係を考えても絶対にありえない。ということは、他に何らかの表に出てこない事情があったということだろう。”

公権力が怨霊の話を持ち出したら怪しいと考えたほうがいい。将門関係の神社へ行けば簡単にわかることが、怨霊の話だけでわからなくなってしまうのだ。それは目隠しをされているってことなんだよ。

つづく。






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