得宗北条はこうして天下を征服した その2
- カテゴリ:勉強
- 2020/02/17 16:00:55
治承3年(1179)の政変を受けて、以仁王とともに挙兵した源頼政が宇治平等院で敗死すると、伊豆の知行国主は頼政から平清盛の義弟時忠となり、旧知行国主方の勢力は圧迫されることとなった。北条氏も例外ではなく、伊東氏に圧迫されることになる。
源頼朝は側近の安達盛長に味方になりそうな地方豪族を探らせて、大庭景義、三浦義明、千葉常胤、上総広常は安達盛長の説得に応じて頼朝に味方することを承諾する。
治承4年(1180)8月17日、三島神社の祭礼にあわせて挙兵、牛鍬大路を通って山木兼隆館を襲撃する。このときの本隊は北条親子を主力とする数十人、途中佐々木定綱らが別働隊を率いて堤信遠を討ち取る。戦といっても実際はやくざの殴り込み程度で、山木を討ち取る駄賃に対抗勢力の堤も攻めており、この頃から北条の狡猾さがみえる。
このとき、頼朝は北条館で山木兼隆の首を取った印となる火の手が上がるのをじっと待っていた。北条時政らの襲撃が失敗したときに、頼朝は切腹する約束までさせられていて、火の手が上がらないことに焦った頼朝は、加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を山木館へ向かわせ、加藤景廉が山木兼隆を討ち取って、頼朝の首は繋がった。
山木兼隆を討った頼朝は300騎ほどで土肥実平の所領である相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)へ向かう。相模国三浦半島の大豪族三浦義明が援軍を率いて合流すべく進軍していたが、平家方の大庭景親、俣野景久、渋谷重国、熊谷直実ら3000余騎が迎撃に向かい、伊東祐親も300騎を率いて石橋山付近まで兵を進めて退路を断った。
頼朝は石橋山に陣を構えるが、三浦義明の援軍が近いことを察知した大庭景親が夜襲を石かける。圧倒的な不利な状態で、頼朝は石橋山の戦いに突入する。
つづく。