得宗北条はこうして天下を征服した その3
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- 2020/02/18 16:09:55
治承4年(1180)8月23日。三浦一族と合流を果たすべく伊豆から相模へ入った頼朝勢だったが、大庭景親ら3000余騎が立ちはだかった。背後は伊東祐親300騎に塞がれて行き場をなくした頼朝は石橋山で大庭景親らが仕掛けた夜戦を受けて立った。
戦国時代であれば頼朝勢はひともみされて散り散りとなり、教科書にもわずか1行、源頼朝の変として載っただけであったろうが、この時代は武士が名誉を重んじる「やあやあ我こそは」と名乗りを上げてから始まる戦で、大庭景親の夜戦は奇襲ではなかった。
源平盛衰記によると大庭景親と北条時政との言葉戦いがあり、大庭景親勢の攻撃が始まっている。頼朝勢は奮戦したが多勢に無勢で散り散りとなるが、大庭方の飯田家義の手引きで土肥郷椙山へ脱出する。
翌24日。大庭景親らが執拗に残党狩りを行い、頼朝らは死に物狂いの抵抗を見せる。生き残りの頼朝方の武士が頼朝のもとへ集まり、土肥実平が土肥は自分の領地であるから頼朝ひとりならなんとしても守るから、再起を図ってばらばらに落ちることを進言し、北条時政、義時、加藤影廉らは甲斐へ落ち、岡崎義実は安房へ先行し、佐々木盛綱兄弟は平家方の渋谷重国に匿われた。工藤茂光は石橋山の戦いで討死、北条時政の長子宗時は落ちていく際に伊東祐親に囲まれ討死している。
頼朝は椙山の洞窟に隠れているところを梶原景時に見つかるが、景時が頼朝を見逃したために頼朝は九死に一生を得て、箱根権現別当行実に匿われる。
頼朝と合流するために500騎で進んでいた三浦義澄、和田義盛らは大雨のため酒匂川で足止めにあい、頼朝方の敗北を知って引き返した。鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢に遭遇し、和田義茂の暴発によって戦となる。その後、和平はなったものの、畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平家方の軍勢が三浦一族の衣笠城に攻め寄せて、三浦一族は夜になって三浦義明を残して海へ逃れた。
三浦義明は源氏累代の家人として、源氏の貴種再興に巡り会えたことを誇りに思い、頼朝のために戦い、壮絶な討死をしたと伝えられ、また、老齢のため置き去りにされたとも伝わっている。
つづく。