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得宗北条はこうして天下を征服した その4

治承4828日、箱根権現別当行実に匿われて大庭景親勢の残党狩りから逃れた頼朝、土肥実平は真鶴から安房へと船で渡る。途中、衣笠城の戦いで海へと逃れた三浦一族とも合流し、829日安房国平北郡猟島(現千葉県安房郡鋸南町)に上陸する。頼朝は房総で勢力を持つ上総広常、千葉常胤に加勢を要請し、下総国の国府で千葉一族、上総広常の大軍と合流する。このとき千葉常胤の『相模国、鎌倉郷を目指し給え』の言葉に従い、下総から武蔵、相模へと南下する。足立遠元、葛西重清がはせ参じ、葛西重清の説得によって、畠山重忠、河越重頼、江戸重長が秩父一族として頼朝方に加わった。衣笠城の戦いで三浦義明を討ち取った畠山重忠と三浦一族との間に遺恨がないように頼朝が取りなしたという。安房へ渡って106日に鎌倉へ入る頃には頼朝勢は数万騎に膨れ上がっていた。

学校の教科書では、鎌倉は「三方が山、一方が海で攻めるに難く、守るに易い」要害の地であり、父義朝の縁がある場所であり、東海道の要衝でありと書いてあり、学校の授業でもそう教わった。

しかし、鎌倉を都とした政権は鎌倉幕府以外に存在しない。後北条を名乗った戦国時代の北条家は小田原を本拠地とし、豊臣秀吉に関東移封を命ぜられた徳川家康は江戸を選んだ。代々の天皇家は奈良、京都周辺に都を置いているし、平清盛は福原に都を移した。

なぜかというと、大きな港があるところに都を造ったからで、奈良、京都は内陸部まで水路が通っていたし、丹後に大きな港があった。福原は神戸で現在でも港町として栄えているし、江戸も小田原もそうだ。鎌倉は海に面していても港はなかった。人工島の和賀江島を港湾施設としたのは執権北条泰時、貞永元年(1232)なので頼朝はこの港を見てもいない。

攻めるに難く、守るに易いというのも騙りで、実際には新田義貞によってあっけなく攻め落とされている。その後の鎌倉は忘れ去られていて、江戸時代になっても大山参りやお富士参りの帰り道に江ノ島神社にほとんどの人が参拝したけれども鎌倉に立ち寄る人はほとんどいなかった。鶴岡八幡宮ぐらいしかない寂しい土地だったのだ。

鎌倉は、源頼義が前九年の役で安倍貞任を討った翌年に、鎌倉の由比郷鶴岡に壺井八幡宮を勧請したことから、源氏縁の土地とされている。実際のところは、鎌倉の豪族たちが苦労して開墾した土地を、源義朝が武力によって襲撃し、彼らの財産をすべて強奪し、多くの人々を虐殺して鎌倉亀ヶ谷に居を構えて、鎌倉党を押さえつけたいわくつきの土地だった。

北条氏、上総氏、千葉氏などなど有力な豪族は頼朝に協力はするけれども、自分の土地で頼朝を庇護するではなく、湿地帯で住みづらい鎌倉へと頼朝を追いやった。鎌倉党は頼朝にもっとも住みづらい鎌倉を明け渡し、銭荒井弁天や佐助稲荷、長谷の山奥へと引っ込んだ。銭荒井弁天は洗うと銭が出るという砂鉄が採れる川辺であり、佐助稲荷は「佐殿(源頼朝が右兵衛府権佐だったことから)を助けた」稲荷であり、長谷は泊瀬であり、港でもあり葬儀場でもあったところだ。

鎌倉党の大庭景親は石橋山で頼朝を討ち取ることができず没落していく。

つづく。

 

 

 

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2020/02/20 15:50
>ゆりかさん
こんにちは^^
鎌倉の史跡巡りをするとわかることですが、実は本覚寺、妙隆寺などの大きなお寺は若宮大路に背を向けていて、正面は小町小路です。鎌倉が賑わってきたのはそれくらい最近のことなんです。
鎌倉って源平合戦が終わると教科書では詳しくやらないから知らないことがたくさんありますね。
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2020/02/19 17:21
こんにちは、kiriさん。

やっぱり港って重要なのですね。
鎌倉は、攻めるに難く守るに易い、というイメージだったので…
実は違うことにびっくり!でも言われてみたら、確かにあっけなく攻め落とされていました^^;

今は観光地として賑わっていますが、当時はそんな恐ろしい土地だったのですね。
知らない人物ばかりで勉強になります。鎌倉史跡巡りにも足を運んでみたい♪
続きも楽しみにしてますね(*^-^)




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