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得宗北条はこうして天下を征服した その5

治承491日。頼朝挙兵の報は大庭景親の早馬によって、福原にもたらされた。平清盛は激怒して討伐隊を編成する。清盛の嫡孫にあたる平維盛を総大将に、平将門を討った藤原秀郷の子孫にあたる藤原忠清を次将として、清盛の異母弟の忠度、清盛の七男の知度をつけて送り出した。95日の頼朝追討の決定から17日も編成に手間取り22日に福原を出立する。出立してからも維盛と忠清が揉めて京都から軍を進めたのは29日だった。平家物語によれば7万騎の大軍だが、多くが途中で募った武士たちであり、西国の大飢饉の影響で兵糧の確保もままならなかった。

甲斐では武田信義(甲斐源氏)が、北陸では以仁王の遺児の北陸宮を擁して木曽義仲(源義朝の異母弟義賢の遺児)が挙兵しており、平氏は対応に追われることとなる。

治承4年(11801020日に頼朝方と維盛方が富士川に布陣するが、水鳥の羽音に驚いた平氏の武士たちが大混乱となって逃げ去ったために頼朝は戦わずして勝利を得た。

このとき維盛の軍と当たったのは武田信義勢とも言われていて、甲斐から出立した武田信義勢が鉢田の戦い、富士川の戦いと進軍したほうが自然なのだ。頼朝勢は鎌倉で地固めをすべく後方支援に徹していたのではないか。

ちなみに武田信義は戦国時代に甲斐の虎と呼ばれた武田晴信の先祖であった。

富士川の戦いのあと、平家方と合流しようとしていた大庭景親を捕縛、伊豆から船で脱出しようとした伊東祐親、祐清親子も捕らえられた。大庭景親は上総広常に預けられたあと26日に固瀬川で処刑され、伊東祐親は三浦義澄に預けられて義澄の助命嘆願により赦されたが頼朝の子千鶴丸を誅殺したことを恥じて自害したという。祐親の子の祐清は千鶴丸が誅殺された際に頼朝の命を助けたことで恩賞を与えられるはずだったが、これを固辞して暇を乞い、平家方に合流して木曽義仲との篠原合戦で討死したという。

つづく。

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2020/02/21 15:32
>ゆりかさん
こんにちは^^
武田晴信は甲斐源氏で八幡太郎義家の弟義光からの流れですから、頼朝とは遠い親戚になりますね。今川義元も八幡太郎義家の四男義国からと戦国時代まで続く流れです。
源氏は不思議な一族で、戦をすると圧倒的に強いけれども、政治になるとかなり苦手のようで、政権の担い手は鎌倉では北条が、室町では伊勢氏が握っていきます。徳川はもともと源氏ではないのですがやっぱり老中が強いですよね。
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2020/02/21 12:53
こんにちは、kiriさん。

おぉ、こんな所で武田晴信の先祖が登場するとは^^
千鶴丸は、伊東祐親にとっても自分の孫だったわけですよね?
まさか流人だった源頼朝が、こんな活躍するとは思いもよらなかったのだと思いますが…
誰にとっても不幸な出来事でしたね。

伊東氏のその後は、どうなったのか知らなかったので、教えて頂き勉強になりました。
続きも楽しみに学ばせて頂きます(*^^*)




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